先日は、リハビリに特化したデイサービスの見学に出かけた。
マンションの一室を借り切った小規模施設である。
両親とも足の動きが心もとないので、ふたりそろって同じ施設を利用したいのだが、今、空きがあるのは、金曜日の午後のひとり分のみ。
コロナが落ち着き始めたこともあって、利用者が増えてきたのだろうか。
地域包括のスタッフ曰く、この界隈の高齢者率は、40パーセントを越えているというから、潜在的な利用希望者はもともと多いのかもしれない。
施設に入居するのは抵抗がある世代も、在宅で過ごせる時間をできるだけ長く保とうと、このようなサービスに人気が集まるのかもしれない。
見学に伺ったのは、コグニション(認知)とエクササイズ(運動)の両方を組み合わせたコグニサイズを取り入れている。
小さな部屋の両脇に、数台のマシンが置かれている。
わたしたちが到着したときはちょうど休憩時間らしく、奥まったところに置かれた丸テーブル3つに利用者が分かれて座っている。
こうしたところに出向いてくることに抵抗があるのか、それとも平均寿命の長さゆえか、圧倒的に女性が多い。
男性の利用者ふたりは、一番奥のテーブルに並んで腰をかけ、お互いに黙って、静かにお茶を飲んでいる。
女性陣は、手前のテーブルふたつを陣取って、おしゃべりに興じ、時々スタッフも加わって賑やかである。
自分が利用するわけではないのだが、すでにできあがった”顔見知りの輪”の中に加わるのがわたしは苦手だ。
こういう場面に出くわすのは、一生涯続くのだな、と思う。
筋力を測定してもらいながら、あれこれ質問を受け、休憩が終わると、マシンのいくつかを体験させてもらう。
目の前の画面にフルーツの絵が次々と出てきたあとに、真ん中の枠のフルーツと同じフルーツがあった場所を当てるといった神経衰弱のようなものから、7よりも大きい数字を選ぶもの、偶数奇数の判別、昔、小学校の頃やらされた知能検査のごとく、積まれた立方体の積み木を数えるというようなものなど。
それらに応えながら、なおかつ、足の自転車こぎ運動も並行して行う、というのが、コグニサイズの特徴なのだとか。
そういえば、職場でも、足の動きと手の動きをバラバラに、コグニサイズの体験をしたことがあったっけ。
当時は、手拍子に合わせて跳んだり跳ねたりといった簡易なものだったが、今では、こんなふうにマシン化されているのである。
後々、利用者側(の家族)として関わるようになるとは、想像もしていなかった。
例によって、父がいいところを見せようと、マシンにかぶりつくように向き合って、必死になっているのが、後ろから見ていてよくわかる。
そのせいか、まずまずの正解率である。
認知症になっても、こういう性分は変わらないのである。
「なかなか面白そうじゃないの」と父よりも、母のほうが気に入ったようである。
が、そこは介護度の高い父に譲ることとして、空きが出るまでの間、母には訪問リハビリをお願いすることになった。
まだまだ始まったばかりなのに、あれこれとケアマネさんに連絡をとったり、実家に行ったり来たりするのが、ちょっと疲れ気味になってきた。
事務的な話だけに終わらず、母の買い物、心細さ混じりの愚痴、父の武勇伝混じりの思い出話などにどっぷり付き合ったことによるものかもしれない。
ともかく、プランが決まり契約書を交わし、サービスが回り始めたらひと息つくだろうか。
今日が何曜日かわからない単調な日々に、こうした行事や訪問が入ることで、彼らの生活にメリハリがつくといい。
マンションの一室を借り切った小規模施設である。
両親とも足の動きが心もとないので、ふたりそろって同じ施設を利用したいのだが、今、空きがあるのは、金曜日の午後のひとり分のみ。
コロナが落ち着き始めたこともあって、利用者が増えてきたのだろうか。
地域包括のスタッフ曰く、この界隈の高齢者率は、40パーセントを越えているというから、潜在的な利用希望者はもともと多いのかもしれない。
施設に入居するのは抵抗がある世代も、在宅で過ごせる時間をできるだけ長く保とうと、このようなサービスに人気が集まるのかもしれない。
見学に伺ったのは、コグニション(認知)とエクササイズ(運動)の両方を組み合わせたコグニサイズを取り入れている。
小さな部屋の両脇に、数台のマシンが置かれている。
わたしたちが到着したときはちょうど休憩時間らしく、奥まったところに置かれた丸テーブル3つに利用者が分かれて座っている。
こうしたところに出向いてくることに抵抗があるのか、それとも平均寿命の長さゆえか、圧倒的に女性が多い。
男性の利用者ふたりは、一番奥のテーブルに並んで腰をかけ、お互いに黙って、静かにお茶を飲んでいる。
女性陣は、手前のテーブルふたつを陣取って、おしゃべりに興じ、時々スタッフも加わって賑やかである。
自分が利用するわけではないのだが、すでにできあがった”顔見知りの輪”の中に加わるのがわたしは苦手だ。
こういう場面に出くわすのは、一生涯続くのだな、と思う。
筋力を測定してもらいながら、あれこれ質問を受け、休憩が終わると、マシンのいくつかを体験させてもらう。
目の前の画面にフルーツの絵が次々と出てきたあとに、真ん中の枠のフルーツと同じフルーツがあった場所を当てるといった神経衰弱のようなものから、7よりも大きい数字を選ぶもの、偶数奇数の判別、昔、小学校の頃やらされた知能検査のごとく、積まれた立方体の積み木を数えるというようなものなど。
それらに応えながら、なおかつ、足の自転車こぎ運動も並行して行う、というのが、コグニサイズの特徴なのだとか。
そういえば、職場でも、足の動きと手の動きをバラバラに、コグニサイズの体験をしたことがあったっけ。
当時は、手拍子に合わせて跳んだり跳ねたりといった簡易なものだったが、今では、こんなふうにマシン化されているのである。
後々、利用者側(の家族)として関わるようになるとは、想像もしていなかった。
例によって、父がいいところを見せようと、マシンにかぶりつくように向き合って、必死になっているのが、後ろから見ていてよくわかる。
そのせいか、まずまずの正解率である。
認知症になっても、こういう性分は変わらないのである。
「なかなか面白そうじゃないの」と父よりも、母のほうが気に入ったようである。
が、そこは介護度の高い父に譲ることとして、空きが出るまでの間、母には訪問リハビリをお願いすることになった。
まだまだ始まったばかりなのに、あれこれとケアマネさんに連絡をとったり、実家に行ったり来たりするのが、ちょっと疲れ気味になってきた。
事務的な話だけに終わらず、母の買い物、心細さ混じりの愚痴、父の武勇伝混じりの思い出話などにどっぷり付き合ったことによるものかもしれない。
ともかく、プランが決まり契約書を交わし、サービスが回り始めたらひと息つくだろうか。
今日が何曜日かわからない単調な日々に、こうした行事や訪問が入ることで、彼らの生活にメリハリがつくといい。