TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

選ぶ

2021年09月14日 | インポート
来年度の異動希望について調査票を提出する季節がやってきた。
ほぼ、人事側の都合によって決定され、思いどおりにはならないとわかっていながら、なぜか毎年、提出の締切ギリギリまで悩む。
ア (現在の職場を)変わりたくない
イ  必要があれば変わってもよい
ウ (現在の職場を)変わりたい
この中から選んで、アとウにはその理由を書く必要がある。

今回は微妙である。
保健所から一刻も早く脱出して、コロナから解放されたいという思いと、定年まであとわずかなのに今さら右も左もわからない職場に行って、また一から新しい仕事を覚えるなんてできるんだろうか、教える側もそうとう迷惑なのではないか、という思い。
ほとんどの業務が、独自のパソコンソフトで行われるようになってきているので、なおのこと、覚えるのが困難のように思われる。
定年間際の人々が、周囲からどのようにみられていたか、まざまざと思い出す。
おたおたとしては、周囲からため息つかれる自分の姿まで想像されたりして……。
初めは苦手だった窓口業務も、4年もたてば、さすがに慣れて落ち着いて対応できるようになった。
馴染んだ仕事を手放すのは、せっかく覚えたのに、ともったいないように思われる‥‥‥。

考えてみれば、生きているとこんなふうに、「選択」しなくてはならないことがすごく多い。
どう転んでもたいして人生に影響を与えないようなものから、おおいに影響を与えるようなものまで大小さまざまな選択。
その都度、まじめに考えて選んできたつもりだが、まちがったほうばかり選んできたのではないかというような気がすることさえある。
じゃんけんをすれば必ずと言っていいほど負け(司会者を決めるために10人でじゃんけんしてもなぜか負ける)、くじ引きにはまず当たらない。
理屈をこねくりまわせばよりよい結論が出るとは限らない。
直観というか、感覚のほうが大事ということもある。
その時はそうるすしかなかった、選択を正しいものにするかどうかは、その後の生き方次第、などというセリフも、あまり慰めにはならない。
年を重ねるごとに、選択肢の数は減っていくような気がするが、そのぶん、重みも増していくのだろう。



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老いは緩やかに

2021年09月08日 | インポート
お盆に引き続き、4日、5日と実家に泊まる。
「お父さんがお父さんであるうちにできるだけ会ってやってほしい」などという心細そうな母のセリフが気になったのである。
行ってみると、父の足取り相変わらずおぼつかなく、余計に衰えを感じさせる。どこが悪いというのではなく、本人曰く、何となく膝が痛いのだとか。すり足で歩くので今にもつまずいてころびそうである。
年を重ねると、理由も原因もわからない不調は、ことに整形外科系で多くなる。

ちょうどパラリンピックもクライマックスにさしかかっていたので、なんだかんだと言いながら一緒にテレビを観る。
比べるのも不遜だが、たとえ片足しかなくてもこのように飛んだり跳ねたりできるのは、本人の努力はもちろんだが、やはり若さだわ、などという感想を抱いてしまう。

ふと、壁に下がったカレンダーに目をやると、もう9月も数日過ぎたのに、8月のままである。マメなたちの父は、月が替わるや否や、待ってましたとばかりにめくるのに、珍しいことである。
たいした手間ではないのに、こういう些細なことが徐々に億劫になっていくのだろう。
そして時計。
電池が切れたのか止まっている。あまり使わない部屋にあるせいか、気づかなかったのだろうが、これも大変珍しいことである。
時計を含め、電池や電気で動くものは父のおはこ。頻繁にチェックして修理したり、電池を取り換えたりしてスムーズに動くようにメンテナンスにいそしんできた。
時計が止まっているなどということは今まであり得なかったのである。

カレンダーは、めくらなければ、ずっと2021年8月のままでいてくれる。
時計は電池を替えなければ、ずっと止まったまま、時は進まない。
しかし人間の方はというと――。
体内時計は止まらない。老いは進んでいく。せつない思いで帰ってきた。


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