日々雑感

最近よく寝るが、寝ると言っても熟睡しているわけではない。最近の趣味はその間頭に浮かぶことを文章にまとめることである。

オリンピックは存在意義を失っているが!

2019年01月09日 09時05分03秒 | 日々雑感
 東京オリンピック、パラリンピックがいよいよ来年に迫った。国内、国外で行われる各種のスポーツ大会で日本人が高い成績をあげ、東京オリンピックでの金メダルは確実とか、入賞は確実になったとか、マスコミは騒ぎ立てるが、一般市民には他人事としか聞こえない。

 その最大の原因は、スポーツ選手が職業化し一般市民とかけ離れた存在になっていると感ずるからだ。体操、水泳や卓球選手など、オリンピックで活躍しそうな選手は小さい頃より英才教育を受けてきた人が多く、スポーツを楽しむ一般市民とは別の存在になってしまったのだ。

 英才教育とは幼少のころから両親に促され、ひたすら脇目も振らず練習をやり、否やらされて、一流になる教育法である。これは、昔からスポーツに限らず、バイオリン等の音楽の世界でも広く行われきた教育法であり、最近では囲碁の世界でもこの教育により10歳の少女がプロになるとのことでマスコミは大騒ぎしている。

 スポーツはあくまでも楽しみながらするものであり、スポーツはエンターテイメントの一つに過ぎず、このこと自体に生産性はない。これは子供を産まない女性に生産性が無いと言ってひんしゅくを買った国会の偉い女性代議士がいるが、それよりはるかに確実な主張である。

 オリンピック運動の創始者であるピエール・ド・クーベルタンが、その運動の理念として提唱した思想は、「オリンピックの出場者は、スポーツによる金銭的な報酬を受けるべきではない」とする考え方であり、オリンピックは元々アマチュアのスポーツであった。

 しかし1974年オリンピック憲章から「アマチュア」の表記がなくなり、1986年サマランチ会長は、アマチュア規定を単に倫理規定とし、プロスポーツ選手参加を可能にしてしまった。

 これには共産主義国家が国を挙げてスポーツ選手を育成しているにも拘わらず、アマチュア選手として参加し、良い成績をあげ、国威の発揮に利用した背景がある。

 日本でも、オリンピックで国威を発揮すべく、かっての共産主義国家の真似をして育成に励み、国立の訓練施設を設け、それなりの成果をあげている。

 選手は幼児の頃から英才教育され、才能あると認められれば国の施設で特訓され、選手はその道一筋に励むことが出来る。正にスポーツの専門化であり、スポーツの職業化、プロ化である。逆にいくら才能が有っても、楽しみながらやっていてはトップ選手に成れないご時世であろう。

 プロスポーツ選手は勝つことが最優先であり、品行方正でなくても競技で勝てば良い分けであり、スポーツマンシップは二の次である。オリンピックがアマチュア精神からすっかり逸脱してしまい、クーベルタン男爵の想いは何処かに吹っ飛んだ。

 オリンピックは4年に一度の開催であるが、プロのスポーツ選手による世界選手権やワールドカップは毎年のように行われる。オリンピックでは各種のスポーツがほぼ同一箇所で同時に開催され、主催者が都市である点で異なるだけだ。

 主催者が都市であれば多大な資金が投入されるため、オリンピックは華やかな祭典となったが、逆にこの華やかさが必要不可欠となってしまった。オリンピックはこれまで開催されていない国で開催されることが魅力であったが、多大な資金を投入しなければ、オリンピックの効果を発揮できなくなってしまった。これが開催都市への立候補が激減する結果を招いてしまった。

 この結果、IOCは昨年、2024年夏季オリンピックをパリに、2028年はロスアンジェルスと成熟都市での開催を正式に決めた。IOCは、成熟した都市である東京での開催に、将来の五輪モデルが示されることを期待しているが、今のところ小池都知事からはそのような案は示されていないどころか、豪華さを一層競っているようである。2019.01.09(犬賀 大好-510)