日々雑感

最近よく寝るが、寝ると言っても熟睡しているわけではない。最近の趣味はその間頭に浮かぶことを文章にまとめることである。

日本には尊厳死認定師なる資格が必要か

2016年01月02日 09時17分35秒 | 日々雑感
 尊厳死とは、終末期の患者の積極的な治療を控える、もしくは中止することである。現在の医学を持ってすれば、例え植物状態になった人間でも、長期に亘って心臓を動かし続けることが可能であるそうだ。植物状態とは、大脳の機能の一部又は全部を失って意識がない状態であるが、人間とは何か、生命とは何か、を考えさせられる状態である。植物状態からまれに回復することもあるそうだが、最近の医学の進歩によりその可能性が増すかも知れない。

 意識が無いまま、回復の見込みも無く、生き続けさせることが、人間的か非人間的か意見が分かれるであろうが、高齢者に限定するならば、早く往生させる方が人間的と感ずる。その意味で、尊厳死を認めたいが、現在の日本においては、尊厳死は犯罪行為である。

 これは人間に人為的に死をもたらすことは絶対的に悪であるとの理屈によると思われるが、自殺を罪とみなすキリスト教圏においても、条件付ではあるが、尊厳死や安楽死を法律的に認めている所がある。日本は、なぜこれほどまでに犯罪視するのであろうか。

日本人の心の中には、死に安心があり、死に対する肯定、死を美化するという考えも存在するのだ。明治天皇に殉死した乃木希典大将や即身仏の慣習は、今なお多くの尊敬を集めている。尊厳死に関しては賛否両論があり、この法制化には強力なリーダシップが必要と思われるが、そうでは無いリーダは問題に触れないことが一番賢明な方法と考える。
 しかし、超高齢化社会を向かえ、次には超大量死社会となることが明らかな現在、何らかの法制化を考えておかなくてはならない。「尊厳死法制化を考える議員連盟」が考えている法案の骨子は、“終末期”にあり、15歳以上で、延命措置を望まない人に対し、2人以上の医師が終末期と判定すれば尊厳死を認め、医師は刑事、民事、行政上の法的責任を問われないと定めている。

 この法案の原文を詳細に検討していないので断定できないが、色々問題がありそうだ。まず延命処理を望まないとの自分の意思を書面で残す必要があるとのことであるが、人の気持ちは変化することもしばしばである。一つにはその有効性はどうやって保障されるかである。現在でも遺言書をめぐり争いごとが絶えないと聞く。これと似た話は起こりうる。

 また、より大きな問題は医師の資質や彼らを管理する側の問題である。例えば、群馬大学病院で肝臓手術を受けた患者が相次ぎ死亡した事件があった。本来は、審査会に諮るべき手術を独断で為したとのことである。例え、2人以上の確認が必要としても、個々の医者に信頼が無くては、何人いても安心できない。更に、管理する側も長年放置してきた責任も大きい。安楽死の許可を現状の彼らに任せるわけにはいかない。

 更に、これらは運用上の問題であるが、そもそも尊厳死を認める法制化の本質的問題点として“尊厳死を安易に容認することが、次第に、いわゆる質の低い生命は不要であるという考えを増幅させ、やがて障害者や重病人や高齢者などを切り捨て抹殺していくような社会を作らないとも限らない”との点が上げられる。もっともである。以上のように尊厳死を認めることは、反対意見も多く2015年12月現在、法制化に至っていない。

 現在の日本において、合法的に人に死を宣告できるのは裁判官のみであろう。裁判官は、難しい幾つもの関門を経てその権利を獲得している。医者も同様に色々な知識、能力を試されその資格を得ているのであろうが、人間の死に関わる宗教的、哲学的な知識までは問われていないであろう。尊厳死の法制化のためには、医学の知識に加えて、宗教的、哲学的な知識まで含めた尊厳死認定師なる資格制度の確立が必要なのかも知れない。(犬賀 大好-195)