9月1日(日)
猛暑のぶり返しの中、四十九日の法要と、納骨。住職と、連れ合いと甥だけのこじんまりとした法事だ。納骨は11時過ぎと、最も暑い中、木陰のない墓地に登る。家のすぐそばなのが救いだ。父の骨壺の隣に、母の骨壺を並べる。仲は良くなかった二人だが、再び隣り合って何を思うのか、などと思っても見る。精進落としはやらない。お墓の前で解散。といっても、住職が、ここから帰るだけのこと。我々3人は、家に直行。しばし、冷房の部屋で休む。
昨晩、3人で、寿司を囲んだので、昼は簡単に。冷凍ピザと、おにぎりで済ます。昼食後一休みして、甥は帰る。
今日の法事を終えて、片付いたとホッとする。母の死以来、というか、今年になって、母が入退院を繰り返し、主治医に、何時であっても致し方ない症状といわれて以来の、肩の荷をようやく下したという気持ちがする。
父の死から14年になろうとする5日前。父の納骨も暑い時だったが、母もみとった。両親二人を見取り、一応の送りを終えたわけで、やることはやったと言ってよいだろう。ここに至るまで、71年の歳月を送ったわけで、長かったなあとしみじみと思う。
だから、これからは、自分自身のこと。行き掛かり上、先祖代々の墓を見ることになったが、これをつなげるつもりはない。形ある墓を、自分の子供に見させるつもりはない。私の兄弟たちも、墓を継ぐことはしないという。ならば、将来的に、無縁仏なるように墓を残すのは、無責任だし、地区の人たちに迷惑をかけることになる。
墓仕舞いをして、きれいに跡形もなくしておくことが、求められる。これからは、その方向で、動いてゆくことになる。71歳の私には、それほどの時間はないと思う。しかし、一周忌の法要ぐらいは、寺にゆかりのある母にやってやってもよいだろう。そして、次の年が、三回忌に当たる。三回忌の法事を、墓仕舞いの法要と合わせる。そんな予定がベターではないかと考えている。