早朝、真っ暗なうちに、連れ合いをバス停まで送る。奈良、明石と関西へ向けて出かけた。
20代になる前から住んできた関西から、帰るという娘。ご近所への挨拶もあるし引っ越す前に行きたいと言っていた連れ合いだが、姉は奈良に住んでいる。これを最後と、姉さんにも会ってこようと計画を立てた。それで、電話を入れたら、義兄が亡くなったとの知らせだった。コロナが人たちのつながりを絶った、とも、既成の慣習を見直すきっかけを作った、とも。葬儀は当然家族だけ葬だろうが、義兄さんの墓前に、そして、姉さんとも最後になるであろう挨拶を。そんな訳で、早朝のバスに乗った。
優雅に、昼食は京都で、娘とだって。それから奈良に向かい、今頃は、姉妹、ふたりで、何を語り合っているのだろう。
娘。
何を思ったか、あそびふらついていた高校3年目、突如、デザイン系の大学にゆきたいと、神戸の大学を志望してきた。(詳細は後ほどとして) 一浪後、合格となった。いろいろ苦労し、なんとか、娘は関西へ。その年が明けた1月だった。早朝、連れ合いがうけた電話が、娘からの第一報。何が起きたかわからない、ものすごい揺れだった。真っ暗。テレビで状況を見てしらせて!だった。以後は、通信不能。
あれから何年なのだろう。娘は、関西の生活を止めるという。
そんなことから、私の終の部屋。そして、親たちが使っていた奥の部屋のリホームが始まったのだった。