ネットか何かで、「色彩を持たない多崎つくる…」あたりまでの言葉が目に入って、おや、この奇妙な言葉の列はなにごとだろうか、といぶかしんだ。そして、それから、村上春樹の新作とまで読んで、ああ、なるほど、と納得した。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」、こんな言葉を、作品のタイトルにできるのは、そうだ、村上春樹しかいない。いかにも、村上春樹らしいタイトルだ。
「色彩を持たない」というのは、なんらかの隠喩である。多崎つくるという主人公が、肌の色も髪の毛の色も持たないということは、事実としてありえない。(よく考えれば、多崎つくるという小説の主人公は、事実としては存在していないというのは、言うまでもないことだが、それはさておいて。)恐らく、黒とか、茶とか、真っ白だとかではない、普通の日本人らしい肌の色をしているだろうし、黒いのか、やや白が混ざっているのか、そういう髪の毛の色をしているはずだ。(多分、金髪に染めているということはない。)
さて、この謎めいた奇妙なタイトルを持つ小説は、読んでみると、まさしくこのタイトル通りの小説である。このタイトルに、謎はひとつもない。色彩を持たない多崎つくるがある年巡礼のように旅をする小説である。もう少し詳しく言えば、色彩を持たない多崎つくるが、高校時代にごく親密な友人であったカラフルな4人のうちの3人に、十数年ぶりに会いに行く小説。カラフルな友人とは、それぞれの苗字に白とか黒とか青とかの色彩を表わす漢字が使われているひとびと。もちろん、それらの友人たちは、主人公の意識においては、カラフルな魅力にあふれているひとびとであった。それに比べて「多崎つくるだけがこれという特徴なり個性を持ちあわせない人間だった。」(12ページ)無色の、薄い灰色の、魅力のない人間。
この小説の題名は、比喩であるのに、同時に、比喩でなく、まさしく内容を直接表した即物的なタイトルである。
この小説には、いつものように、気のきいた警句がちりばめられている。
「自分自身の価値を追求することは、単位を持たない物質を計量するのに似ていた。」(15ページ)
しかし、フィンランドのタクシーの運転手や、旅行社のスタッフが気のきいた警句を吐くことを、主人公は希望しないらしい。それは、作者が自分自身に向けて語ったジョークに違いない。もちろん、同時に、彼の小説を読み込んだいつもの読者に向けて。
これも、いつものように、ファッションの話題。
「細いピンストライプの白地のシャツに、茶色のニットタイ。シャツの袖は肘のところまでまくり上げられている。ズボンはクリーム色のチノパンツ、靴は茶色の柔らかな皮のローファー、靴下はなし。」(182ページ)
そして、音楽と飲み物と食べ物。
(モヒートというカクテルを、主人公のガール・フレンドがバーで飲んでいた。知らなかったが、今夜、NHKのBS1で教えてもらった。なるほど。)
ところで、フィンランドの旅行社スタッフの女性が語った警句は、主人公がここに来た理由を英語で説明するのは難しいと言ったことに対して、「どんな言語で説明するのもむずかしすぎるというものごとが、私たちの人生にはあります。」(257ページ)
色彩を持たない多崎つくるが、遠く旅して、3人のひとに会って、話しをして、話しを聴いて、ようやく自分自身に対して説明がつくようなこと、納得しうるようなこと。それにしても、百パーセント完全にではなく、ほぼあたりをつけたように、だが。
日本人で、日本語の卓越した使い手であるこの小説家が、370ページの小説をまるまる使ってようやく説明できるようなむずかしいことというのがある、ということだ。
主人公は、鉄道会社の社員で、こつこつと鉄道の駅をつくり続けている。(もちろん、「つくる」が「つくる」という喩。ありていに言えば、駄洒落。)ごく普通の地味なサラリーマンだ。しかし、志望した東京の国立の工科大学の建築科を出て、専門家として、駅を設計し、改修を担当する。しかも、幼い頃からの鉄道マニアで、特に、駅舎が好きだった。つまり、子どものときの夢を彼は実現している。
「君はどこまでも立派な、カラフルな多崎つくる君だよ。そして素敵な駅を作り続けている。」巡礼の旅の果てに、彼はこういう言葉を聴く。
ぼくら普通のおとな、地道な勤め人も、同時に、その言葉を語り掛けられている。一流の大学を出て、一流の会社に勤めたエリートが、特徴も個性もない、無彩色の地味な人間に過ぎないと自虐してもリアリティない、と突っ込むところではない。
かのフランスの大革命期の思想家ヴォルテールの荒唐無稽な物語の結末にならって、「なにはともあれ、私たちの畑を耕さなければなりません」とつぶやいて、日々の地道な仕事に精を出す、というところだ。
ところで、いつものように、私のために書かれたようなこの村上春樹の小説が、百万人を超える読者を獲得するというのは、どこか信じがたい。このような小説が、そんなにも多数の支持を得るということはありうることだろうか、といぶかしい。とはいっても、この前に読んだ佐々木中の小説に比べれば、いくつかケタの違う数の読者がいるというのは至極当然のことだ。
「色彩を持たない」というのは、なんらかの隠喩である。多崎つくるという主人公が、肌の色も髪の毛の色も持たないということは、事実としてありえない。(よく考えれば、多崎つくるという小説の主人公は、事実としては存在していないというのは、言うまでもないことだが、それはさておいて。)恐らく、黒とか、茶とか、真っ白だとかではない、普通の日本人らしい肌の色をしているだろうし、黒いのか、やや白が混ざっているのか、そういう髪の毛の色をしているはずだ。(多分、金髪に染めているということはない。)
さて、この謎めいた奇妙なタイトルを持つ小説は、読んでみると、まさしくこのタイトル通りの小説である。このタイトルに、謎はひとつもない。色彩を持たない多崎つくるがある年巡礼のように旅をする小説である。もう少し詳しく言えば、色彩を持たない多崎つくるが、高校時代にごく親密な友人であったカラフルな4人のうちの3人に、十数年ぶりに会いに行く小説。カラフルな友人とは、それぞれの苗字に白とか黒とか青とかの色彩を表わす漢字が使われているひとびと。もちろん、それらの友人たちは、主人公の意識においては、カラフルな魅力にあふれているひとびとであった。それに比べて「多崎つくるだけがこれという特徴なり個性を持ちあわせない人間だった。」(12ページ)無色の、薄い灰色の、魅力のない人間。
この小説の題名は、比喩であるのに、同時に、比喩でなく、まさしく内容を直接表した即物的なタイトルである。
この小説には、いつものように、気のきいた警句がちりばめられている。
「自分自身の価値を追求することは、単位を持たない物質を計量するのに似ていた。」(15ページ)
しかし、フィンランドのタクシーの運転手や、旅行社のスタッフが気のきいた警句を吐くことを、主人公は希望しないらしい。それは、作者が自分自身に向けて語ったジョークに違いない。もちろん、同時に、彼の小説を読み込んだいつもの読者に向けて。
これも、いつものように、ファッションの話題。
「細いピンストライプの白地のシャツに、茶色のニットタイ。シャツの袖は肘のところまでまくり上げられている。ズボンはクリーム色のチノパンツ、靴は茶色の柔らかな皮のローファー、靴下はなし。」(182ページ)
そして、音楽と飲み物と食べ物。
(モヒートというカクテルを、主人公のガール・フレンドがバーで飲んでいた。知らなかったが、今夜、NHKのBS1で教えてもらった。なるほど。)
ところで、フィンランドの旅行社スタッフの女性が語った警句は、主人公がここに来た理由を英語で説明するのは難しいと言ったことに対して、「どんな言語で説明するのもむずかしすぎるというものごとが、私たちの人生にはあります。」(257ページ)
色彩を持たない多崎つくるが、遠く旅して、3人のひとに会って、話しをして、話しを聴いて、ようやく自分自身に対して説明がつくようなこと、納得しうるようなこと。それにしても、百パーセント完全にではなく、ほぼあたりをつけたように、だが。
日本人で、日本語の卓越した使い手であるこの小説家が、370ページの小説をまるまる使ってようやく説明できるようなむずかしいことというのがある、ということだ。
主人公は、鉄道会社の社員で、こつこつと鉄道の駅をつくり続けている。(もちろん、「つくる」が「つくる」という喩。ありていに言えば、駄洒落。)ごく普通の地味なサラリーマンだ。しかし、志望した東京の国立の工科大学の建築科を出て、専門家として、駅を設計し、改修を担当する。しかも、幼い頃からの鉄道マニアで、特に、駅舎が好きだった。つまり、子どものときの夢を彼は実現している。
「君はどこまでも立派な、カラフルな多崎つくる君だよ。そして素敵な駅を作り続けている。」巡礼の旅の果てに、彼はこういう言葉を聴く。
ぼくら普通のおとな、地道な勤め人も、同時に、その言葉を語り掛けられている。一流の大学を出て、一流の会社に勤めたエリートが、特徴も個性もない、無彩色の地味な人間に過ぎないと自虐してもリアリティない、と突っ込むところではない。
かのフランスの大革命期の思想家ヴォルテールの荒唐無稽な物語の結末にならって、「なにはともあれ、私たちの畑を耕さなければなりません」とつぶやいて、日々の地道な仕事に精を出す、というところだ。
ところで、いつものように、私のために書かれたようなこの村上春樹の小説が、百万人を超える読者を獲得するというのは、どこか信じがたい。このような小説が、そんなにも多数の支持を得るということはありうることだろうか、といぶかしい。とはいっても、この前に読んだ佐々木中の小説に比べれば、いくつかケタの違う数の読者がいるというのは至極当然のことだ。
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