土曜日の昼と夜に仙台で別の予定があり、当初金曜日の夜に一泊して、土曜夜、気仙沼に帰るつもろでいたところ、昼の予定がキャンセルになり、それならばということで、土曜の夜にホテルの予約を移していた。妻も休みなので、特に何ということもなく、久しぶりに仙台でゆっくりしてみようと。
東京には、年に数度は泊まりがけで行くことはあるが、仙台は基本的に日帰り。あえて、泊まることはない。
私は、勤務の都合で、土曜と日曜と、交代でどちらかは出勤で月曜日は休みとなる。土曜昼の予定がキャンセルになったので、他のメンバーのシフトとの絡みもあって、この週は土曜出勤、日曜休みとした。
で、夕方勤務終えてから仙台に向うこととしたが、うかつにも、夕方の予定の開始時刻は確認しないでいた。恐らく7時くらいからで、若干遅刻しても何とかなるだろうとたかをくくっていた。ところが、案に相違して、5時開始で、7時には終了とのことだった。仙台駅前の会場は、居酒屋であっても、時間の設定がシビアなようだ。
妻は、ホテル、キャンセルする?というが、まあ、それはそれで乗りかかった船、ということでもないが、仙台で夜を過ごすのも悪くはなかろうと。ちょうど、前の晩から、定禅寺ストリートの光のページェントも始まるタイミングではあった。
考えてみれば、用もないのに仙台で一泊するなどというのは、はじめてのことだったかもしれない。妻は、短大を仙台で過ごしているので、卒業後に、単に遊びにということで泊まりがけでということはあったかもしれないが、どちらにしても、それは、三十年近く前の、結婚以前のことだ。結婚前のことは、大まかなところは別として、それほど詳しいところまで承知しているわけではない。
ホテルに駐車場はないようなので、定禅寺通りは避けて、近くの駐車場に入れるが、市内の道はいつもよりずいぶん込み合っていた。信号を何度も待たずには通り過ぎることができない。ホテルに荷物を置いてから、街に出る。大きな通りの向こう、定禅寺側に、大きな一本の木に巻き付けた巨大な青い、らせん状のイルミネ―ションが見える。その光を目指して歩く。
定禅寺ストリートは、オレンジ色の無数の灯りが、けやきの並木に取り付けられ輝いていた。
妻と、人混みの中、ページェントの真ん中を歩く。
その夜は、一番町と並行する細い通りの、古いおでんやで過ごした。ビルの一階はカウンターと小上がり、三階は座敷。店は込み合っていて、三階に通された。おでんは、一品づつ頼むのでなく、おでん鍋の小中大と選ぶ。ふたりで、小をひとつ、それに、白魚のてんぷらと焼き鳥の塩。支払いは、カードで済ませる。
翌朝は、朝食に間に合うように起きて、午前中にホテルを出る。
美術館に行こうか?何か特別展はやっているかどうか分からないけど。カフェで、コーヒーを飲もう。
通りに出ると、雪が積もっている。道路にはほとんどないが、建物や、路側帯や、低い植え込みに、雪が残っている。空気は冷え込んで、冬らしく、暖かいところから出たときには、一瞬、気が引き締まるように気持ちがいい。
車に、五センチメートルほどの雪が積もっている。フロントガラスや、車の屋根から雪を落とす。泊まりの料金を払って、駐車場から車を出す。既定の時間を三〇分以上過ぎているが、追加の料金はない。細い通りをそのまま西に向かい、大きな通りを右折して、さらに左折して広瀬川の橋を渡り、美術館の駐車場に入る。車はほとんどない。植え込みに雪が残っている。
午前十時ちょうど、開館の時刻のようだ。
煉瓦積みの前庭を通り、煉瓦造りの建物に入る。中庭に面したカフェは、まだ誰も客がいない。
店の奥から
―こんばんは。あ、おはようございます、と聞こえる。
妻と顔を見合わせていると、黒いエプロンで白いシャツの男が出てきて、お好きな席へどうぞ。
中庭に面した全面のガラス窓の向こうは、冬らしくどんよりと曇っている。午前中なのに、夕方のように薄暗い。もちろん、建物の中は、暖房が効いて暖かい。店の中は、一見乱雑に様々な意匠のテーブルや椅子、ソファが並べられている。表や縁が傷だらけの木の机、年季が入って擦り切れたような皮張のソファ。黒や赤、ベージュ、様々な色合い。素人が、デザインなど全く無視して、あり合せのものを並べたような醜さを、どこかで辛うじて逃れている、不思議な空間。
ああ、ブリコラージュのような。文化人類学者のレヴィ=ストロースが言って、日本では山口昌男や大江健三郎や中沢新一が、それを引用して語っている、手仕事。手元にある一見無駄なもの、あり合せのものを使って当座の、その場しのぎの役に立たせる間に会わせ仕事のような。
ここは美術館のカフェだからね。
窓に面した、傷のついた木のテーブルに、表面にひっかいたような傷だらけのベージュのソファに腰をおろし、コーヒーをふたつ注文する。
コーヒーは、ふたつの違う種類の陶器のコーヒーカップに入れ、こちらは同じ種類のブリキの小さな皿に載せて、さきほどの若い男が運んでくる。
僕は、ゆったりとソファに深く腰を落とし、妻は、背筋を伸ばして腰を掛け、窓の外の建物の縁どりに雪を載せ、どんよりと曇った空の下の中庭を眺めてコーヒーを啜る。
本も読まず、妻と、言葉少なに会話しながら時を過ごす。積極的なことは何もしない。無為に時を過ごす。時を贅沢に浪費する。若い頃は、こんな時の過ごし方はできなかった。必ず何か本を持って読むとか。
あ、違う。恋人と、あるいは、友人たちとも、良くおしゃべりをしながら、時を過ごしていたじゃないか。
でも、それは、だれかひとと会うということが目的の有為の時間だった。恋人と、何か期待した、意図の満ちた時を過ごす。
今は、妻と、何の意図もない、無為の時を過ごす。それが、満ち足りている。
特別展は、佐藤忠良だった。入口すぐに「群馬の人」という首から上だけのブロンズ像があった。群馬の人は、農民の顔をしている、と忠良は言っていたようだ。解説には、日本のごく普通の庶民が、はじめて彫刻となったと、当時評されたとある。
そのとき、ぼくは、あっ、と思うところがあった。
藩政期以前には、仏像や、ごく限られた武将等の像しか存在しなかったのは間違いないだろう。ぼくは詳らかにしないが、近代以降、たとえば、高村光太郎の父である高村光雲らが、そこらの市井のひとを彫るということは、無かったのだろうか?
この「群馬の人」は、一九五二年、昭和二七年の作という。昭和も戦後、私が生まれるたかだか四年前のことに過ぎない。そのときまで、日本の庶民は、彫刻のかたちで写され、定着されるということがなかったのだという。確かにそうかもしれない。
考えてみると、この日本の歴史の中で、ごく普通の一般庶民が、社会の中で有為の存在として扱われるということは、長くなかったことなのではないか?公家や武士、高名な僧、明治以降の政治家、軍人、学者、芸術家、そういうひとびとではない、ごく普通の市井のひとびと、我々庶民は、社会の中での「地」の存在でしかなく、いちども「図」として現れたことがなかったのではないか?
日本の大衆が、社会の主人公として姿を現したのは、まさしくこの戦後のとき以降のことなのではないか?日本の民主主義は、たかだか六〇年の歴史しか持たない、まだ成熟には遠い未成年のものなのではないか?
特別展の入り口で、佐藤忠良作の首から上だけのブロンズ像を見て、あっ、と思ったことは、敷衍してみれば、そんなことだ。
日本の民主主義は、まだ成長の過程にあって、これからまだ何度も脱皮しなければならないのだろう。われわれが、何世代にもわたって育てていかなければならないのだろう。
マントをはおって、ボタンを留めようとする、ショートスカートに膝丈のブーツをはいた若い女の像や、帽子をかぶって、上半身は裸、ジーンズをはいた像やそれ以外の裸象は、何の意匠もなくごく自然にそこに存在しているように見える。芸術作品として、芸術家たる彫刻家の意匠をもって製作される彫刻以前の、芸術を成り立たせるための土台とも見えるような作品たち。もちろん、容良い体型の女たちが選ばれているのだろうが、ごくありのままにそこに再現されているような像。驚くべきことと僕が思うのは、実は、それこそが芸術なのであろう、というのが一点。もうひとつは、そういうオーソドクス、正統が形成されたのが、戦後のたかだか半世紀のことというのがもう一点。
佐藤忠良の「ボタン」や「夏の女」などが、戦後、高度成長期以降の日本の社会の有様を写しているのは確かだが、さらに言えば、この社会のひとつの正統を形成したのだとも言えるのではないか?
ひとは、社会に影響されるのだが、一方、影響を与えもする。ひとが被る影響というのは、社会一般からではあっても、それは具体的には、だれかあるひとからであることは言うまでもない。あるいは、誰かあるひとが製作したものから影響を受けると言っても同じこと。佐藤忠良が、あるいは、彼の作品が、あたかもひとつの「地」のように、戦後の日本社会に大きな影響を与えた、ということは、確かなことではないだろうか。
東京には、年に数度は泊まりがけで行くことはあるが、仙台は基本的に日帰り。あえて、泊まることはない。
私は、勤務の都合で、土曜と日曜と、交代でどちらかは出勤で月曜日は休みとなる。土曜昼の予定がキャンセルになったので、他のメンバーのシフトとの絡みもあって、この週は土曜出勤、日曜休みとした。
で、夕方勤務終えてから仙台に向うこととしたが、うかつにも、夕方の予定の開始時刻は確認しないでいた。恐らく7時くらいからで、若干遅刻しても何とかなるだろうとたかをくくっていた。ところが、案に相違して、5時開始で、7時には終了とのことだった。仙台駅前の会場は、居酒屋であっても、時間の設定がシビアなようだ。
妻は、ホテル、キャンセルする?というが、まあ、それはそれで乗りかかった船、ということでもないが、仙台で夜を過ごすのも悪くはなかろうと。ちょうど、前の晩から、定禅寺ストリートの光のページェントも始まるタイミングではあった。
考えてみれば、用もないのに仙台で一泊するなどというのは、はじめてのことだったかもしれない。妻は、短大を仙台で過ごしているので、卒業後に、単に遊びにということで泊まりがけでということはあったかもしれないが、どちらにしても、それは、三十年近く前の、結婚以前のことだ。結婚前のことは、大まかなところは別として、それほど詳しいところまで承知しているわけではない。
ホテルに駐車場はないようなので、定禅寺通りは避けて、近くの駐車場に入れるが、市内の道はいつもよりずいぶん込み合っていた。信号を何度も待たずには通り過ぎることができない。ホテルに荷物を置いてから、街に出る。大きな通りの向こう、定禅寺側に、大きな一本の木に巻き付けた巨大な青い、らせん状のイルミネ―ションが見える。その光を目指して歩く。
定禅寺ストリートは、オレンジ色の無数の灯りが、けやきの並木に取り付けられ輝いていた。
妻と、人混みの中、ページェントの真ん中を歩く。
その夜は、一番町と並行する細い通りの、古いおでんやで過ごした。ビルの一階はカウンターと小上がり、三階は座敷。店は込み合っていて、三階に通された。おでんは、一品づつ頼むのでなく、おでん鍋の小中大と選ぶ。ふたりで、小をひとつ、それに、白魚のてんぷらと焼き鳥の塩。支払いは、カードで済ませる。
翌朝は、朝食に間に合うように起きて、午前中にホテルを出る。
美術館に行こうか?何か特別展はやっているかどうか分からないけど。カフェで、コーヒーを飲もう。
通りに出ると、雪が積もっている。道路にはほとんどないが、建物や、路側帯や、低い植え込みに、雪が残っている。空気は冷え込んで、冬らしく、暖かいところから出たときには、一瞬、気が引き締まるように気持ちがいい。
車に、五センチメートルほどの雪が積もっている。フロントガラスや、車の屋根から雪を落とす。泊まりの料金を払って、駐車場から車を出す。既定の時間を三〇分以上過ぎているが、追加の料金はない。細い通りをそのまま西に向かい、大きな通りを右折して、さらに左折して広瀬川の橋を渡り、美術館の駐車場に入る。車はほとんどない。植え込みに雪が残っている。
午前十時ちょうど、開館の時刻のようだ。
煉瓦積みの前庭を通り、煉瓦造りの建物に入る。中庭に面したカフェは、まだ誰も客がいない。
店の奥から
―こんばんは。あ、おはようございます、と聞こえる。
妻と顔を見合わせていると、黒いエプロンで白いシャツの男が出てきて、お好きな席へどうぞ。
中庭に面した全面のガラス窓の向こうは、冬らしくどんよりと曇っている。午前中なのに、夕方のように薄暗い。もちろん、建物の中は、暖房が効いて暖かい。店の中は、一見乱雑に様々な意匠のテーブルや椅子、ソファが並べられている。表や縁が傷だらけの木の机、年季が入って擦り切れたような皮張のソファ。黒や赤、ベージュ、様々な色合い。素人が、デザインなど全く無視して、あり合せのものを並べたような醜さを、どこかで辛うじて逃れている、不思議な空間。
ああ、ブリコラージュのような。文化人類学者のレヴィ=ストロースが言って、日本では山口昌男や大江健三郎や中沢新一が、それを引用して語っている、手仕事。手元にある一見無駄なもの、あり合せのものを使って当座の、その場しのぎの役に立たせる間に会わせ仕事のような。
ここは美術館のカフェだからね。
窓に面した、傷のついた木のテーブルに、表面にひっかいたような傷だらけのベージュのソファに腰をおろし、コーヒーをふたつ注文する。
コーヒーは、ふたつの違う種類の陶器のコーヒーカップに入れ、こちらは同じ種類のブリキの小さな皿に載せて、さきほどの若い男が運んでくる。
僕は、ゆったりとソファに深く腰を落とし、妻は、背筋を伸ばして腰を掛け、窓の外の建物の縁どりに雪を載せ、どんよりと曇った空の下の中庭を眺めてコーヒーを啜る。
本も読まず、妻と、言葉少なに会話しながら時を過ごす。積極的なことは何もしない。無為に時を過ごす。時を贅沢に浪費する。若い頃は、こんな時の過ごし方はできなかった。必ず何か本を持って読むとか。
あ、違う。恋人と、あるいは、友人たちとも、良くおしゃべりをしながら、時を過ごしていたじゃないか。
でも、それは、だれかひとと会うということが目的の有為の時間だった。恋人と、何か期待した、意図の満ちた時を過ごす。
今は、妻と、何の意図もない、無為の時を過ごす。それが、満ち足りている。
特別展は、佐藤忠良だった。入口すぐに「群馬の人」という首から上だけのブロンズ像があった。群馬の人は、農民の顔をしている、と忠良は言っていたようだ。解説には、日本のごく普通の庶民が、はじめて彫刻となったと、当時評されたとある。
そのとき、ぼくは、あっ、と思うところがあった。
藩政期以前には、仏像や、ごく限られた武将等の像しか存在しなかったのは間違いないだろう。ぼくは詳らかにしないが、近代以降、たとえば、高村光太郎の父である高村光雲らが、そこらの市井のひとを彫るということは、無かったのだろうか?
この「群馬の人」は、一九五二年、昭和二七年の作という。昭和も戦後、私が生まれるたかだか四年前のことに過ぎない。そのときまで、日本の庶民は、彫刻のかたちで写され、定着されるということがなかったのだという。確かにそうかもしれない。
考えてみると、この日本の歴史の中で、ごく普通の一般庶民が、社会の中で有為の存在として扱われるということは、長くなかったことなのではないか?公家や武士、高名な僧、明治以降の政治家、軍人、学者、芸術家、そういうひとびとではない、ごく普通の市井のひとびと、我々庶民は、社会の中での「地」の存在でしかなく、いちども「図」として現れたことがなかったのではないか?
日本の大衆が、社会の主人公として姿を現したのは、まさしくこの戦後のとき以降のことなのではないか?日本の民主主義は、たかだか六〇年の歴史しか持たない、まだ成熟には遠い未成年のものなのではないか?
特別展の入り口で、佐藤忠良作の首から上だけのブロンズ像を見て、あっ、と思ったことは、敷衍してみれば、そんなことだ。
日本の民主主義は、まだ成長の過程にあって、これからまだ何度も脱皮しなければならないのだろう。われわれが、何世代にもわたって育てていかなければならないのだろう。
マントをはおって、ボタンを留めようとする、ショートスカートに膝丈のブーツをはいた若い女の像や、帽子をかぶって、上半身は裸、ジーンズをはいた像やそれ以外の裸象は、何の意匠もなくごく自然にそこに存在しているように見える。芸術作品として、芸術家たる彫刻家の意匠をもって製作される彫刻以前の、芸術を成り立たせるための土台とも見えるような作品たち。もちろん、容良い体型の女たちが選ばれているのだろうが、ごくありのままにそこに再現されているような像。驚くべきことと僕が思うのは、実は、それこそが芸術なのであろう、というのが一点。もうひとつは、そういうオーソドクス、正統が形成されたのが、戦後のたかだか半世紀のことというのがもう一点。
佐藤忠良の「ボタン」や「夏の女」などが、戦後、高度成長期以降の日本の社会の有様を写しているのは確かだが、さらに言えば、この社会のひとつの正統を形成したのだとも言えるのではないか?
ひとは、社会に影響されるのだが、一方、影響を与えもする。ひとが被る影響というのは、社会一般からではあっても、それは具体的には、だれかあるひとからであることは言うまでもない。あるいは、誰かあるひとが製作したものから影響を受けると言っても同じこと。佐藤忠良が、あるいは、彼の作品が、あたかもひとつの「地」のように、戦後の日本社会に大きな影響を与えた、ということは、確かなことではないだろうか。
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