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ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

平川克美 復路の哲学 されど語るに足る人生  夜間飛行

2016-08-02 00:18:45 | エッセイ

 夜間飛行とは出版社の名称である。

 内田樹、平川克美と続けて、この出版社の本を読んだ。

 同じ出版社であり、また、この両名は、盟友である。

 東京の片隅の同じ町で生まれ育ち、同じ高校に通って、片やは東大、片やは早稲田、卒業後に語らって、二人で会社を興す。花の東京は渋谷道玄坂あたり(だったと思う)に、翻訳会社を立ち上げる。

 村上春樹の作品の登場するのとそっくりのシャレオツな設定で、彼らは、村上春樹が自分たちのことをモデルにしたと思い込んだ、という説もあるが、逆に、村上春樹に惚れこんで、ふたりで翻訳会社を作った、ということでもないようである。

 村上春樹の方も、彼らの存在を知っていたわけでもなくて、ここらは、双方、まったく無関係にことは進んだというのが正解のようだが、まあ、同じ時代の中で、シンクロするように物事は生起したわけである。

 ただ、まあ、村上春樹が、作家になる前に営んでいたジャズ・バー(当時のいい方だと、むしろ、ジャズ喫茶の部類なのだろうが)のカウンターで、お客の誰かが、同級生の平川某が、友達と二人でこんな会社を、みたいな話をしていて、それを小耳にはさんでいたとかいう可能性はないでもない、と思っている。

 かれら3人はほとんど同世代で、私よりも6歳年長、というくらいの年格好だ。村上も平川も早稲田で学部は違うが、共通の友人とか知り合いはいた可能性もある。

 平川克美は、早稲田の理工を出て、ビジネスマンとして暮らしてきたひとだが、翻訳、だとか、ITのベンチャーだとか、ネットのラジオだとか、必ずしもお堅いサラリーマンではなかったとはいえ、きったはったのビジネスの世界で社長業をこなしてきたひとだ。

 このところ、作家としての活躍は目覚ましく、その中で、2012年の「小商いのすすめ」(ミシマ社)と2010年の「移行期的混乱 経済成長神話の終わり」(筑摩書房)が主著ということになるだろうか。

 ちょっと今本棚見たら、平川の著作はすでに9冊ある。2014年発行のこの本、ほぼすぐ買っていると思うが、この人のも結構読んだので、少し間をおこうかなと、枕頭に積んでおく本の1冊と化していたが、さて、ここらで、と読み始めた。(直前に読んだ内田樹「困難な成熟」と、まったく同じ筋道である。)

 内田樹もそうだが、平川克美の言うことは、100%信頼できる、と思っている。主張は、まったくそのとおりである。経済成長神話はすでに終わっているのだし、街場の小商いの重要性もそのとおりである。地元で生きている小経営者がどういうメンタリティで生きているか、決して利潤追求のため事業を行っているのではない。地域の中で、社会の中で求められるモノを、サービスを提供する、社会に役に立つためにこそ、商売を続けているのだ、みたいなこと。

 あ、そうそう、冒頭で、東京の片隅で、などと書いたが、これは決して失礼なもの言いではない。平川も内田も、東京都大田区の海寄りの方、田園調布とかではない方、蒲田あたりの町工場の集積するあたりの出である。そこで生まれ育ったことが、平川の思想に大きな影響を及ぼしている、というか、平川の思想展開のなかで、あらためて大きな意味をもつ場所になった、ということが言える。戦後の日本を支えてきた市井の人々、庶民の暮らす街、というか。

 この本「復路の哲学」は、そういう平川が還暦を過ぎて、「人生の復路」を語ろうとする本である。

 冒頭、「序」はこう始まる。

 

 「おとなは、大事なことはひとこともしゃべらないのだ」

 

 向田邦子の小説「あ・うん」からの引用である。

 次のページには、「私がほんとうのことを言ったら世界が凍る」みたいな、吉本隆明の言葉を引いている。だから、大人はほんとうのことなど、簡単には言わないのだ。

 (でも、私は、大人じゃないので、時々ほんとうのことを言ってしまう。とはいっても、言わないことも多いんだけどね。毎度、世界を凍らせちゃまずいんで。実は、私がほんとうのことを言うと、実際に周りの世界は凍りつく、ということになっているんで。などということはさておき。)

 

 二つ目の章は「お客様は神様です」というものだが、この言葉は、国民的流行歌手と言われた三波春夫の名言である。三波春夫のキャッチ・フレーズともなった言葉。お笑いタレントが、モノマネのレパートリーに必ず入れる言葉でもあった。

 この言葉の三波自身が込めた意味合いは、一種神聖なものであったようだが、その後、ひとり歩きしたこの言葉は、違う意味合いをおびるようになったという。

 

 「一九七〇年に大阪で世界万国博覧会が催され、三波春夫はそのテーマソングである「世界の国からこんにちは」を唄うことになる。その万国博覧会を契機にして、日本に消費資本主義とでもいうような、消費文化が隆盛を極めていく。まさに市場経済隆盛の時代である。」(29ページ)

 

 「「お客様は神様です」という言葉は、この頃より「消費者は神様である」というように読み替えられるようになっていった。」(30ページ)

 

 消費者は神様。

 ここに、一種の、大きなまちがいが潜んでいる。

 それは、どんな間違いか?

 人間は、消費者ではあるが、実は、同時に生産者でもある。そこの生産者であるところを隠して、捨てて、消費者の部分だけを取り上げる。消費者は、モノを買う人である。生産から切り離され、お金を使ってモノを買う局面だけに抽象化された存在。企業から見たときに、お金を支払ってくれるだけの存在。お金の出所。お金を使って買ってもらった品物は、どうなってもいい。お金に換えられた瞬間に、企業にとってはどうでもいい、不要の存在になってしまう。

 人間が、生産と消費の両面あってこそ、生活していけるのに、あたかも、消費の場面だけあれば人間でいられるかのような勘違いが横行している。豊かな暮らしが成り立つのは、消費によってだけではない。生産の局面もあってこそ、なのだ。

 子どもは確かに消費のみで暮らしているかもしれない。

 消費者とは、実は、子どものこと。

 「消費者は神様である」と持ち上げられた社会とは、実は、子どもばかりの社会、大人のいない社会だったのかもしれない。

 

 「年若い経営者が、市場から吸い上げた金を背景にして「金で買えないものはない」と豪語したとき、貨幣は他の何ものの太刀打ちできない強大なパワーそのものになったのだと私は思った。それはたとえば、大人が大人である条件としての、失敗の経験や知性の蓄積といった、長い時間をかけて積み上げていってはじめて身につくような価値をもなぎ倒していくことができるほどのパワーである。/この貨幣の万能性信仰が、大人と子供の境界をあっさりと消失させる結果をもたらしたのである。」(32ページ)

 

 企業が、営利企業という言葉はあるが、お金を儲けることのみがその目的だというのは間違った考え方である。利潤追求が目的ではない。むしろ、社会に役立つ品物やサービスを提供することこそが目的である。ここのところが重要なポイントになる。(ちなみに、利潤は、良きマネジメントの結果としてもたらされるものである。赤字にならず、事業が継続していけるようにマネジメントする、その結果、利潤も生じる。それは決して目的ではない。社会の中で良き役割を果たし続けること、それこそが目的であるはずである。)

 その顧客は、単なる消費者ではありえない。消費者でありかつ生産者である存在。生活者である。日々を生産と消費の両面を行いつつ生きる生活者である。

 物が売れていく、サービスが売れていくと言う過程は、生産者と消費者とのつながりにつきるものではない。それは同時に、生活者と生活者のつながりである。

 そういうようなことを、私は、平川克美の著作を通して学んできた。

 いま、読むべき思想家のひとりであることは間違いない。

 

 ところで、「小商いのすすめ」については、こんなことを書いていた。

http://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/3a35f046d7350720f2c4094334be0677

 

 「移行期的混乱」の方は、ブログで読書の記録を始めるまえに読んでいたようだ。


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