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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

想田和弘 日本人は民主主義を捨てたがっているのか 岩波ブックレット

2014-03-21 01:32:01 | エッセイ

 想田氏は、映画監督とのこと。2007年の「選挙」という映画。聞いたことはある。1970年生まれ。43歳くらいか。

 民主主義というのは、すでに実現しているものではなく、つねに実現されようとする過程であるみたいなことはいわれる。それは、日本国憲法に書き込まれていることでもあった。

 この本の末尾近くで想田氏は言う。

 「改めて日本国憲法を読み直してみると、七〇年近く前に憲法を書いた人も、『民主主義にとって大事なのは日常の小さな闘いの積み重ねなのだ』と考えていたであろうことが、窺われます。憲法第一二条には、次のように記されているからです。

 第一二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」(76ページ)

 この条文を読んでも、学生の時には特に何も感じなかったという。

 そうだな。私も、それほど深くは感じるところがなかった気がする。

 しかし、憲法に、「不断の努力」などという言葉が書き込まれていた、ということは、考えてみるに、とても驚くべきことだ。とても、文学的、ではないだろうか。

 そうだよな。国民の不断の努力が、確かに必要に違いない。黙っていてもだれかが与えてくれるというようなものではない。

 さて、想田氏は、自民党の改憲案を問題にする。現在の憲法の条文と並べて見せてくれる。

「【現行憲法】第一三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由、及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 【自民党改憲案】第一三条 すべて国民は、人として尊重される。生命、自由、及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

 お気づきのように、現行憲法で人権を制限する概念として使われている『公共の福祉』を、自民党は『公益及び公の秩序』という言葉に置き換えています。」(29ページ)

 その何が問題なのだろうか?

 日本国憲法で『公共の福祉に反しない限り』というのは、一般に『他人の人権を侵さない限り』という意味であると解釈されています。」(29ページ)

 ここでの「公共の福祉」という言葉は、なんらか積極的な施策、対策というよりも、「他人の人権を侵さない」という、一見消極的な意味合いしかもたないのだということのように見えだ。しかし、これは、消極的なのではなくて、むしろ、基本的人権を守るという観点から見たとき、積極的な意味合いを持つのだという。「個人の人権を制限できるのは、別の個人の人権と衝突する場合のみ」(29ページ)に限られるのだと。

 自民党案の「公益及び公の秩序」に反しない限りというのは、「言い換えれば『国や社会の利益や秩序』が個人の人権よりも大切だということになります。」(30ページ)

 個人よりも国家が大切だという考え方。

 また、現行憲法で「個人として尊重される」とうところが、「人として」と言い換えられている。これは「個人」という言葉を避けたのだろうと推測される。自民党は、個人が嫌いだというよりは、「個人主義」が嫌いなのだろう。一方で、「全体主義」が好ましいとも、恐らく広言はしないはずだ。一部には「個人主義」より「全体主義」のほうが好ましいと秘かに考えているひともいるのかもしれないが。

 ところで、個と全体というのは、両立しないものなのではない。というよりは、両立するもの、お互いにお互いを必要とするものなのだ。

 個人と国家というのは、あるいは、個人と民族というのは、排他的に対立するものではない。どっちか選ぶという筋合いのものではない。

 共同体を離れて個人があるわけではなく、個人なくして共同体があるわけでもない。どっちも大切なのだ。

 個人も共同体も、どちらも確固として存在するものでありながら、どこか、あやういものだ。国家も民族もそして個人も、良く見ると輪郭があやふやで壊れやすい。不確かなものだ。

 国家とか地域とかの、公益や公の秩序も大切であることは論をまたない。「秩序などくそ喰らえ」と言ってしまいたい衝動もあるが、そして、そういうもの言いが有効だったりする場合もあることは充分に承知しているが、良く考えてみれば「秩序」はやはり大切なのだ。

 そのうえで、私は、そうだな、比べてみればどちらかというと、想田氏と同じく、公の秩序よりは個人の人権を尊重する、という立場だな。個人は、国家より、相対的に弱い存在だと言うべきだろうと思う。

 日本国憲法が、基本的人権の尊重を言う、ということには、人類の歴史上、然るべき必然性があるのだ、と私は考える。

 自民党の改憲案なるものが、基本的人権の尊重という観点で、いささかの疑義はあるということは言っておくべきだろうと思う。

 念のため言っておけば、私は日本国憲法を不磨の大典として、一言一句変えべきでないなどとは思っていない。時代の変化に対応して変えるべきところは変えていいのだ。(ちなみに時代の変化に即応して、というのは行き過ぎだと思う。鈍重に反応する、というくらいのところだろう。)

 地方自治のことなどは、もっと書きこんでいいはずだ。

 しかし、基本的人権の尊重と平和主義の原則は、愚直に守り通すべきところ。

  さて、後半に、自由市場主義の貫徹というか、行き過ぎた資本主義の問題点があからさまになったようなエピソードが出て来る。

想田氏が出演したトークショーで、会場からこんな発言が出た。

 「政治は分かりにくいからハードルが高い。もっとハードルを下げてもらわないと関心を持ちにくい」(54ページ)

 一見もっともな発言のようでいて、想田氏は違和感を覚えた。かれの意識に、さかなの小骨のように突き刺さったのだと。

 しばらくして、想田氏は、ああ、これは「苦情」だ、と思い当った。

 これは、消費者の苦情なのだ。いま、主権者が消費者となっている。

 「政治家は政治サービスの提供者で、主権者は投票と税金を対価にしたその消費者であると、政治家も主権者もイメージしている。そういう『消費者民主主義』とでも呼ぶべき病が、日本の民主主義を蝕みつつあるのではないか。(中略)

 『賢い消費者は、消費する価値のないつまらぬ分野に関心を払ったり時間を割いてはならない』という決意と努力の結果なのではないかと思うのです。(中略)

 内田樹氏は『下流志向』(講談社)などで、教育現場の崩壊の根本的な原因が、子どもたちが自らを消費主体として立ち上げてしまうことにあると論じていますが、それと相似形のことが、政治の現場でも起きていると考えられるのです。」(55~56ページ)

 なるほど。

 国民はすべて消費者である。経済学的にはまさしくその通りであろう。間違いはない。すべての生産者は、必ず消費者である。

 政治学的には、国民は主権者である。参政者である。

 しかし、現代という時代は、政治学的にも、国民は、まず消費者である、ということになってしまったらしい。

 それが、民主主義を崩壊させる原因となってしまう。

 このあたりは、吉本隆明が、消費による選択というか、消費をとても肯定的に述べていたこととどう関係するか。もういちど「マス・イメージ論」のあたりを参照してみるべきだな。

 さて、民主主義というものは、そろそろ捨て去ってもいいものなのかどうか。などと、これは、もちろん、修辞として言っているに過ぎないわけで、そんなわけはない。チャーチルが「民主主義は最悪の政治体制だ。これまで存在したすべての政治体制を除いては」という趣旨の、イギリス人らしい警句を言ったという、そんな民主主義ではあるが、なんとか、だましだまし使っていかなくてはならない、というようなものなのかもしれない。

 


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