ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

小熊昭広氏の情報短信で

2013-10-21 10:54:17 | エッセイ

 小熊昭広氏が、かれのHP情報短信(http://blog.poetic.jp/index.php?itemid=131746)で、霧笛26号、27号に触れていただいている。9月29日の日づけ。ツイッターで、書いていただいたということだけは、触れていた。

 及川良子(ながこ)さんの作品と、私の作品を取り上げていただいた。

 基本的に正しい読みであると思う。

 良子さんの深く清澄な世界に、最近は、少し、それに抗うような、雑音めいたものが忍び込んでいる、というのは正しい読みだ。

 そういう雑音も書き込める、ということは、書き手としての成長であるのだろうと思う。

 私の詩について、基本的に読み込んで頂いている筋は正しい。

 若干、微妙に訂正しておきたいところはあるけれども。事実関係みたいなところで。

 たとえば、「置く」という詩について、小熊氏は、「前提に、第18共徳丸が解体されるということが決まった状況があったから書かれた作品と推察します。千田氏は、第18共徳丸の震災遺構として残すべきかどうかの是非をここで題材にしているわけではなく、あくまで常山氏のスケッチを題材にしているのだなと言う理解がこの詩には必要なのかなと思います。」と書いている。

  実際は、撤去が最終的に決まってから書いたものではない。船主が撤去の意向を固め、地元としても最終的な判断を迫られている状況の中で書いた。そのときに、常山俊明の絵に遭遇して、触発された。問題をひとつ、提起しようと。しかし、霧笛の発行作業が進まないうちに、発行の時点では、すでに撤去が確定していたという流れ。

 だから、まさに、ことの是非を題材にしている詩だ。かといって、一方的に残すべきという主張を声高に叫んだ詩というわけでもない。「残さない選択をすべき」と語る人々のことも、大きく念頭にある。

 船主の意向は確定しており、ほぼ、方向が定まった段階と言えばそのとおりのことでもある。

 小熊氏の読みは、大筋として、外してはいない。

 そして「置く」ということば。

  「どこかに震災遺構を作るという意味での『置く』ということがあるかと思いますが、千田氏が繰り返す『置く』は、そういうことではないと思います。それは、それぞれ、一人ひとりの心の中に、『置く』という行為が大事なんだよということだと思います。」

 私としては、端的に物体としてそこに存在する、ということをくり返し強調したかったわけで、しかし、それが、同時に「一人ひとりの心の中に『置く』という行為」とまでなっていれば、そう読み取ってもらえれば、望み以上に有難いことということになる。

 ここでも小熊氏の深い読みは、当たっていることになる。

 そして26号の「なかったことのように」の末尾が「ダンスを踊る」であることと、27号の「盆踊りもして」という言葉の対比をもって、「傍観するまれびと」から「当事者」へ移った、立ち位置を変えたという評価をなさる。

 じつは、私は、詩によって、ころころと立ち位置を変えている意識はある。だから、それは、まさしく、ひとつの詩作品として立ち位置を意図的に変えているんだよ、とも言えるところだ。

 でも、なにか、震災からの時の経過が、そういう心の持ちように影響を与えている、ということは確かにあるのかもしれない。


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