土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

吉野神宮は後醍醐天皇が祭神です。

2012年05月15日 | 奈良の古寺巡り


(2012.05.12訪問)
本善寺からもと来た169号に戻り、次の吉野大橋を渡り、吉野山を目指します。かなりの急カーブが続きま
すが、ほどなく社号石柱と鳥居が見え、大きく吉野神宮とあります。この二の鳥居から広い表参道を行きます。
相当緑のグラデが瑞々しくそして、神域に相応しい深閑とした中に秘めたるパワーをいただけそうな…。

[ 吉野神宮 ]
●社号 吉野神宮(よしのじんぐう)
●祭神 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
●創建 明治25年(1892年)
●社格 旧官幣大社
●摂社 御影神社、船岡神社、瀧櫻神社。

吉野神宮縁起(吉野神宮HPから抄出)
吉野神宮は、吉野町吉野山丈六平に鎮座し、後醍醐天皇を奉祀する神社(旧官幣大社、現神社本庁管轄下)で
ある。後醍醐天皇が文保2年(1318年)の践祚以来天皇親政を志し、建武中興を成就したが、足利尊氏の造反
にあい延元元年(1336年)12月吉野山に遷幸、吉野朝廷(南朝)を樹立。吉野朝廷は、一時期吉水院に行宮(皇
居)を定めるが、吉水院は、明治維新の神仏分離令の際、廃寺となり、明治8年(1875年)吉水神社と改称。
これは、明治7年に、天皇親政復古を目指した建武中興の理想が成就されたとして、後醍醐天皇社という名
称のもとで創立が許可され、天皇ゆかりの旧吉水院内に祀ったことによるものと考えられる。しかし、後醍
醐天皇の奉祀神社の創建を一寺院を改称して充てるのは、不見識であるとされ、明治22年(1889年)6月、吉
野宮として新たな社殿を創立し、官幣中社に列された。明治25年(1892年)の社殿完成にともなって、後村
上天皇の勅命により吉水院(吉水神社)に奉安されていた、後醍醐天皇の御宸像が奉遷され、明治34年(1901
年)には、官幣大社に昇格し、さらに、大正7年(1918年)には、神宮の号を奉称して吉野神宮と改称された。

▼吉野神宮参道入り口の二の鳥居。(一の鳥居は近鉄吉野神宮駅近くに建っています。)



▼広い表参道は晴れてたらねェ、緑のトンネルにフィトンチッドが一杯なのに。



▼大鳥居が見えてきました。



▼銅板葺きの立派な社号標ですね。



▼大鳥居。堂々の白木大鳥居。
木造明神型、鳥居にもタイプがあるんですね。柱間約7m、約総高8.5m。昭和5年(1930年)造。



▼スタイル抜群、阿吽の狛犬。ユニークな尾をしています。
原型は彫刻家故北村西望の作品で、一般的なものと比較すると非常に精悍な印象が強く感じ、静かな佇まい
の境内に毅然として鎮る姿は誠に見事なものがある。



▼大鳥居から境内前庭を見渡します。
吉野山丈六平に神域2万7000坪を有しているそうです。
創建当初の神域は規模些少のため、大正12年(1923年)規模拡張、神庫・手水舎・井戸屋形・絵馬堂を残す
他はすべて取り壊され、大規模な造成をしてその跡地に再建された。そのために明治造営の社殿配置構成の
面影は現在まったく失われている。(吉野神宮HPから抄出)



▼これまた立派な表手水舎。
桁行1間、梁行1間、切妻造、銅板葺。軒は一軒繁垂木の建物。昭和6年(1931年)造。



▼神門。
3間一戸八脚門、切妻造、銅板葺、左側に宿衛舎、右側に神符授与所を置く。昭和4年(1929年)造。



▼外拝殿。
桁行5間、梁行3間、入母屋造、銅板葺。基壇上に建つ。昭和3年(1928)造



▼外拝殿から内拝殿(幣拝殿)を見る。



▼内拝殿(幣拝殿)。
神官の方に聞いてみたのですが、もう一つこの建物の意味が理解出来ませんでした。
幣帛を捧げる際の拝殿なんだろうと思うんですが。



本殿は内拝殿(幣拝殿)の奥に鎮座。写真では千木、堅魚木しか見えませんが、三間社流造、向拝は土庇、銅
板葺、正面、外陣両側面では板扉。

▼摂社拝殿。
桁行3間、梁行3間、切妻造、銅板葺。基壇上に建つ。



▼摂社本殿。手前から瀧櫻神社、船岡神社、御影神社。
三社三棟、春日造、銅板葺。千木、堅魚木があげられている。祭神はいずれも後醍醐天皇忠臣。
御影神社祭神 藤原(日野)資朝、藤原(日野)俊基。
船岡神社祭神 児島範長、児島高徳、櫻山茲俊
瀧櫻神社祭神 土居通増、得能通綱。



社歴120年は神社としての歴史はありませんが、祭神後醍醐天皇への追慕とその精神性、皇室の南朝への傾
斜が大きな意味を含み、神道推進を図る維新の神仏分離令の影響きわめて大きく、天皇御宸像を吉水院から
迎え奉祀、以来650有余年を社歴として奉安していると云われています。




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