(2016.05.07訪問)
みなさ~ん、GWどうお過ごしでしたか。
迷車大和路号はGWの六日と七日両日、周防、長門の国を訪問、旧主大内氏が謳歌した西ノ京と毛利氏最後の地、萩の名刹を訪ねる旅
に出かけた訳であります。腹の立つことこの上なし、何の因果か雨にたたられた旅でありました。初日ズ~ッとシトシト、どこも回れ
ず写真も撮れず。夜、湯田の湯で「いい湯だな」をうなり、明日は晴れてよと誰にお願いするともなくお願いし、ベッドにバタンQ~
で貴重な一日がオシマイ。二日目、やはりシトシト。ところが九時過ぎた頃、空が明るくなったんです。勇んで瑠璃光寺へ向ったのは
云うまでもありません。
▼瑠璃光寺シンボル五重塔(国宝)。
この塔を何が何でも見たいがため、
迷車大和路号はハルバル500kmの道のりをやって来たのであります。
[ 瑠璃光寺 ]
●山号 保寧山(ほねいざん)
●寺号 瑠璃光寺(るりこうじ)
●宗派 曹洞宗(そうとうしゅう)
●開基 陶弘房夫人
●開山 大庵須益大和尚(だいあんすえき)
●開創 文明三年(1471年)
●本尊 薬師如来坐像
▲拝観 境内自由
▲山口県山口市香山町7-1 電話083-922-2409
▲JR「山口駅」からコミュニティバス香山公園五重塔前行き「香山公園五重塔前」下車 徒歩すぐ
中国道山口ICから国道262、9号経由15分
▼参道口に寺号碑。
瑠璃光寺縁起 (瑠璃光寺パンフから抄出)
大内氏重臣陶弘房の菩提寺。応仁の乱で戦死した弘房の菩提を弔うために夫人が仁保の地に文明三年(1471年)瑠璃光寺を建立。
大内氏二十五代大内義弘は現在の香山公園に香積寺を建立。義弘は応永六年(1399年)応永の乱で戦死。二十六代弟盛見は兄の菩提を弔
うため香積寺に五重塔を造営中戦死。五重塔はその後、嘉吉二年(1442年)建立。大内氏が滅びこの地は毛利氏が領し、後関ヶ原合戦の
後、毛利輝元が萩入りし香積寺を萩に引寺。跡地に仁保から瑠璃光寺を移築したのが今日の瑠璃光寺です。
▼後ろに山が控え、広々とした境内に一直線にのびる参道。
▼参道右手に憧れの五重塔が緑に埋まっています。
法隆寺、醍醐寺とここ瑠璃光寺の五重塔が日本三名塔と云われています。塔高31.2m、檜皮葺、嘉吉二年(1442年)建立。
▼独特の屋根勾配と各層軒の出が深いので優美な塔も真っ黒ケ(ヘタな写真の言い訳)。
▼正面です。この塔の特色の勾欄が二層目にしか無いのが分かります?
初層と五層屋根の低減率70%が優雅さの理由、本当に美しい塔ですヨ。
▼相輪は普通ですネ。
▼では参道へ戻りましょう。
▼山門です。
▼異様に大きい扁額。山号保寧山と元気な筆です。
▼山門から正面本堂です。
▼妻側が正面の本堂。入母屋造、桟瓦葺。
▼それはそれは超豪華な内陣の荘厳。
▼本尊薬師如来坐像。内陣須弥壇の最奥にお坐りです。紗かチュールの薄物が前に架けられお顔がはっきりしません。
▼脇陣の子安地蔵。赤ちゃんを胸元に抱っこしています。
フル法衣で頭飾を付ける姿は地蔵尊のイメージがありませんネ。
▼薬師堂。此の地にまで彼の地の人はお越しです。考えて見りゃ近いもんネ。
▼本尊薬師如来坐像。全身金ピカ、新しく大きなお像です。
▼入母屋造、桟瓦葺、重層勾欄付袴腰の重厚な鐘楼です。
▼庫裏。ココで御朱印を戴きます。
▼庫裏を結ぶ渡り廊下。
▼庫裏の軒に相当使い込まれた魚板。ココではホウ(木へんに邦)とよんでます。
▼境内の一角に慈母観音。
▼放生池の畔に手水鉢。
▼五重塔を模した石塔。
▼放生池の畔に黄菖蒲。池は睡蓮で埋まっていますが開花はまだのようです。
▼吾唯足るを知る。
▼境内から小雨煙る山を見る。
▼大内弘世の像。
貞治二年室町幕府と和解し周防、長門、石見の守護となる。本拠を山口に移し憧れの京都を模し西ノ京と称し、大内氏繁栄の基礎
をきずいた方です。
▼名塔を目に焼き付けて瑠璃光寺オシマイ。
▼御朱印です。
名塔はやはり名塔でした。燃える?ような緑に染まり煙雨に霞む山裾に六百年の歴史を刻んできた五重塔は閑かに佇み、千年を超える
名刹とは又違う風情は何とも云えない満足感でした。
それでは長州の志士達が通ったと云う萩往還を一路北へ、維新の英雄達に会いに萩に向かいます。
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