土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

黄檗山萬福寺、黄檗禅の総本山。

2016年05月17日 | 京都の古寺巡り





(2016.05.14訪問)


萩の黄檗禅東光寺、山口の曹洞禅瑠璃光寺を一週間前訪ね感激して帰ってきましたが、こちらに帰ってきて本家本元を訪ねない訳に
はいきません。久々に京都宇治に総本山黄檗山萬福寺と道元さん初開道場興聖寺を訪ねました。迷車大和路号には千百キロ走行のお
駄賃休暇を与えたため今日は京阪電車でやってきました。取り敢えず黄檗駅で降ります。



▼総門(重文)。まさに中国風で木部はベンガラ塗り。境内の広さに比べて非常に小ぶりな印象の門です。
 三間一戸、八脚門、切妻造、左右の屋根が低い牌楼(ぱいろう)式という中国風門。寛文元年(1661年)建立。





[ 萬福寺 ]
●山号 黄檗山(おうばくさん)
●寺号 萬福寺(まんぷくじ)
●宗派 黄檗宗(おうばくしゅう)
●開基 隠元隆琦禅師(いんげんりゅうき)
●開創 寛文元年(1661年)
●本尊 釈迦如来坐像
▲時間 8:30~17:00
▲拝観 500円 文華殿 300円 朱印300円   
▲京都府宇治市五ヶ庄三番割34 電話0774-32-3900
▲http://www.obakusan.or.jp/
▲JR奈良線「黄檗」下車 徒歩5分
 京阪宇治線「黄檗」駅下車 徒歩5分
 京滋バイパス「宇治東」ICから5分 京滋バイパス「宇治西」ICから10分





▼総門扁額。「第一義」と書かれています。黄檗山五世高泉性敦禅師(こうせんしょうとん)の揮毫。






黄檗山萬福寺縁起
黄檗山萬福寺は寛文元年(1661年)に中国僧隠元隆(いんげんりゅうき)禅師によって開創されました。禅師は中国明朝時代の臨済宗
を代表する僧で、中国福建省福州府福清県にある黄檗山萬福寺のご住職をされていました。その当時、日本からの度重なる招請に応
じ、六十三歳の時に弟子二十名を伴って承応三年(1654年)に来朝されました。宇治の地でお寺を開くにあたり、隠元和尚は寺名を中
国の自坊と同じ黄檗山萬福寺と名付けました。その後、幕府の政策等により、宗派を黄檗宗と改宗し現在に至ります。日本でいう禅
宗は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されています。




▼屋根棟の両端不思議な生物。摩伽羅(まから)と云う想像上の生物で、聖域結界の入り口、屋根、仏像等の装飾に使われているそう
 です。







▼総門からの参道。前方を右に曲がると三門になります。







▼放生池。もうしばらくすると池面イッパイの睡蓮で埋まるのでしょう。







▼放生池越しの三門。







▼三門(重文)です。貫禄十分、堂々の三門ですネ。
 入母屋造、本瓦葺、三間三戸楼門形式、延宝六年(1678年)建立。













▼楼上の扁額。「黄檗山」開山隠元禅師の書です。







▼初層の扁額。「萬福寺」これも同じく隠元禅師の書です。







▼三間三戸の三門は開放的で、いつでもどなたでもどうぞの優しさを感じます。







▼中央戸口から一直線の参道。







▼参道の先には天王殿が見え、左右も相当広いです。







▼天王殿(重文)。桁裄五間、梁間三間、単層入母屋造、本瓦葺、正面梁間一間は吹き放し。寛文八年(1668年)建立。
 天王殿は黄檗宗の寺院にしかなく、中国寺院の特徴だといいます。













▼天王殿の扁額。黄檗山二世木庵性瑫禅師(もくあんしょうとう)の書。







▼天王殿のキャラスター、布袋さんは弥勒菩薩の化身とされています。それにしても堂々の太鼓腹。
 像高110.3cm、木造、漆箔。寛文二年(1663年)造立。







堂内左右に四天王像。
▼増長天。                         ▼持国天。



▲広目天。                         ▲多聞天。 





▼大雄宝殿(重文)。萬福寺の本堂です。
 桁裄三間、梁間三間、入母屋造、本瓦葺き。重層ではなく下屋根は裳階。正面一間は吹き放し。寛文八年(1668年)建立。
 境内最大の建物。







▼さすが貫禄重文ですネ。







▼上層の扁額。「大雄宝殿」開山隠元禅師の書です。







▼下層の扁額。「萬徳尊」木庵性瑫禅師の揮毫。







▼堂内は非常に質素な荘厳。中央須弥壇に本尊釈迦三尊が祀られています。







▼今しも若い修行僧がお経を読み始めました、がサッパリ理解出来ません。オール中国語のお経です。







▼本尊釈迦三尊。中尊釈迦如来坐像、左脇侍(向って右)迦葉尊者立像、右脇侍(向って左)脇侍阿難尊者立像。
 寛文九年(1669年)造立。







            ▼本尊を横から。







▼開山隠元さんとはこんな方。後ろ堂に安置されてます。







            ▼堂内床は瓦タイルが全面に敷かれています。







▼堂前の白砂利敷き月台。この広場のもう一つの意味は、月光を白砂に反射させを堂内に取り入れるためにとも云われています。







▼法堂(重文)。桁裄五間、梁間六間、入母屋造、棧瓦葺、正面1間通は吹き放し。寛文二年(1662年)建立。
 内部には須弥壇のみを置き仏像は安置されてなく住持の晋山式などに使うお堂。内部は非公開。







▼扁額「獅子吼」隠元禅師の師、費隠通容禅師(ひいん つうよう)の書。







▼法堂勾欄は卍崩しの文様で有名ですネ。







            ▼宝篋印塔。怨親平等塔と云い、日中戦火に倒れた兵民の精霊を慰め、
             日中両国が一日も早く友好親善の実現の祈願に建立。







▼祖師堂(重文)。桁行三間、梁間三間、入母屋造、本瓦葺。寛文九年(1669年)建立。







▼祖師堂本尊 達磨大師坐像。像高166.5cm。達磨大師は釈尊より二十八代目の弟子で禅宗の初祖。
 世に知られるダルマさんとはイメージが違い人間味豊かな像形です。左右に歴代住持の位牌が祀られています。







▼鼓楼(重文)。方三間、重層入母屋造、本瓦葺。延宝七年(1679年)建立。







▼廻廊の中途に合山鐘。開山堂、寿蔵、舎利殿で行われる儀式の出頭時にのみ鳴らされるそうです。







▼廻廊前に干上がった池の黄菖蒲。直射でヨレヨレ。







▼やはり廻廊前に建つ、なんでしょうコレ。







▼隠元さん廟、生前に築造された寿塔(重文)。







▼寛文二年(1663年)建立、六角堂、本瓦葺、宝形造の中国式墳墓。







▼舎利殿への石段。場所が場所だけに少々ビビります。







▼舎利殿(重文)。通常人は余り寄り付かないと思われる寿塔北の高台に立つ後水尾法皇が黄金の佛舎利多宝塔を奉安したお堂。
 方三間、宝形造、本瓦葺。寛文七年(1667年)建立。







▼開山堂山門、通玄門(重文)。四脚門、切妻造、本瓦葺、ベンガラ塗りの赤門。寛文五年(1665年)建立。







▼扁額。「通玄」隠元禅師の書。







▼開山堂(重文)。隠元72歳の木像を安置、頭髪、髭が植毛されているそうです。
 桁裄三間、梁間一間、入母屋造、本瓦葺、一重裳階付、正面は吹き放し。







▼下層扁額。「開山堂」木庵性瑫禅師の書。







▼上層扁額。「瞎驢眼(かつろげん)」隠元禅師の師、費隠通容禅師の書。







▼開山堂内陣須弥壇の奥に隠元さんが祀られているのでしょう。







▼渡り廊下。境内殆どの堂宇は渡り廊下で結ばれています。







▼儀式の時を知らせる2mの開版。







▼何やら声を張り上げて雲版を打つ僧。







▼青銅製の雲版。







▼伽藍堂(重文)。桁裄三間、梁間二間、入母屋造、本瓦葺、寛文九年(1669年)建立。伽藍を守護する伽藍神華光菩薩を祀る。







▼扁額。「伽藍堂」木庵性瑫禅師の書。







▼伽藍堂本尊華光菩薩像。像高163.5cm。賑々しく赤中心の荘厳です。







▼鐘楼(重文)。方三間、重層入母屋造、本瓦葺。寛文九年(1669年)建立。鼓楼に相対して建っています。







▼文華殿。宝物、隠元遺品、中国伝来品の収蔵保管と展示を行い、年二回春秋に一般公開。昭和四十七年(1972年)建立。







▼御朱印です。






萬福寺はとにかく広い、その広い境内に中国明様式の伽藍配置で、創建当初の姿が今日まで残され、代表的な禅宗伽藍建築の主要伽
藍二十三棟が重文に指定されているそうです。とても全部回れませんでした。
開創は江戸期以降なので、仏像や伽藍の歴史は感じることは出来ませんが、それぞれのお堂には随所に中国の薫りがします。萬福寺
のこれだけの寺域に壮大な伽藍群を整え、大景観を今の姿にするのには、皇室、幕府からの信頼援助があればこそ。カリスマ隠元さ
んの力は相当なものだったんでしょうネ。

このブログで伽藍の扁額を多く紹介しています。黄檗寺院の扁額はとにかく大きい、そして名僧の筆は誰が見てもスゴイ!
扁額行脚だけでもお寺を訪ねる価値あると思いますヨ。

長々とありがとうございました。皆様お目を大切に!





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東光寺、全国屈指の黄檗宗寺院です。

2016年05月12日 | 山口の古寺巡り





(2016.05.07訪問)


瑠璃光寺の五重塔に感激して、さて萩市に向かいます。幕末から維新にかけて、吉田松陰、木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞など、多
くの志士たちが心を熱くして往来した道、萩往還を走ります。急坂、山道、長閑な田舎道と変化に富んだ街道を小一時間、やがて萩
市に入り、目指す東光寺は萩市の東部、山裾のやや高台にベンガラ塗りの総門が迎えてくれます。




▼総門(重文)。
 三間一戸、八脚門、切妻造、本瓦葺。用材の表面全体ベンガラ塗。中央持ち上げの棟式屋根は黄檗風様式。元禄六年(1693年)建立。






[ 東光寺 ]
●山号 護国山(ごこくざん)
●寺号 東光寺(とうこうじ)
●宗派 黄檗宗(おうばくしゅう)
●開基 毛利吉就(もうりよしなり)長州藩三代藩主
●開山 慧極道明禅師(えぎょくどうみょう)
●開創 元禄四年(1691年)
●本尊 釈迦如来坐像
▲時間 8:30~17:00
▲拝観 300円 朱印300円   
▲山口県萩市椿東1647 電話083-826-1052
▲JR「東萩駅」タクシー5分
 山陽自動車道「防府東IC」より車で50分





▼総門扁額。「護国山」と書かれています。東光寺開山の慧極道明禅師の揮毫。






東光寺縁起
護国山東光寺は、元禄四年(1691年)に三代藩主毛利吉就が萩出身の名僧慧極を開山として創建した全国屈指の黄檗宗寺院で、大照院
とならぶ毛利家の菩提寺。総門、三門、鐘楼、大雄宝殿はいずれも国の重要文化財に指定されており、名刹の面影を残しています。
本堂裏の毛利家墓所は国指定の史跡で、吉就から十一代までの奇数代の藩主とその夫人及び一族、関係者の墓があります。




▼総門正面。







            ▼隅飾突起が羽ばたいている宝篋印塔。基壇からするとゆうに4mはありそう。

      





▼三門(重文)。
 桁行11.6m、梁間6.7m、三間一戸、楼門形式。入母屋造、本瓦葺。藩主毛利斉熙寄進、文化九年(1812年)建立。







▼三門戸口上部の扁額。「解脱門」と書かれています。隠元禅師の高弟、黄檗三筆のひとり即非如一禅師の揮毫。







▼上層の扁額。「最勝閣」と書かれています。東光寺十五世、大愚衍操禅師の揮毫。







▼三門から参道。前方僅かに見えるのは、大雄宝殿(本堂)です。







▼きれいな参道ですネ。







▼石段の先スグ大雄宝殿ですが、参道左に……、







▼鐘楼(重文)です。
 一見鐘楼には見えませんネ。重層に見えますが、下屋根は裳階です。
 上層部は入母屋造、本瓦葺、下層部は桟瓦葺。上層には大鐘と大太鼓が置かれ、鼓楼も兼ねているそうです。







▼鐘楼扁額。ズバリ鐘楼と書かれています。







▼間もなく大雄宝殿。







▼本堂の大雄宝殿(重文)。
 桁裄七間、梁間五間、入母屋造、本瓦葺、下屋根は裳階です。元禄十一年(1698年)建立。
 屋根中央には黄檗風火焔付き二重宝珠が乗せられています。







▼裳階軒の扁額。寺号東光禅寺と書かれています。







▼上層軒の扁額。堂名大雄宝殿と書かれています。







▼正面の戸口。入堂は出来ませんが内部を見渡せることはできます。







▼豪快な内部の荘厳、高い天井から吊り下げられた天蓋と柱聯の豪華なこと。堂内柱は総て方柱。







▼中央須弥壇には本尊 釈迦三尊像。中尊釈迦如来坐像、左脇侍(向って右)迦葉尊者立像、右脇侍(向って左)脇侍阿難尊者立像。
 中尊お釈迦さんのお顔何となく中国風に見えなくもないですが、仏師はれっきとした日本仏師、法橋藤村忠円です。







▼大雄宝殿前から境内。
 大雄宝殿前の砂利のスペースは月台と云う行事や法要の時など堂内に入りきれない人々の為の広場だそうです。







▼方丈左玄関は藩主用。







▼方丈右玄関は家臣用。







▼大雄宝殿東の奥まった所に東光寺開基の三代藩主毛利吉就公から十一代までの奇数代の藩主、その夫人の墓が正面に並び、参道左
 右に均等に並んでいる約五百数基の石燈籠は家臣らが寄進したものだそうです。壮観ですヨ。







▼正面の二基右が三代藩主毛利吉就。左が同室亀姫の墓です。







▼墓の形式は唐破風の笠石付き角柱(位牌)の形に統一し、法名が刻んであります。
 因みに二代から十二代の偶数代藩主の墓所はJR萩駅近くの大照院にあります。







▼御朱印です。





東光寺これにてオシマイ。
境内の広さは創建時を保っているようですが、伽藍は殆ど現存しません。総門、三門、鐘楼、大雄宝殿、方丈のみで禅刹を構成する
諸堂は残念ながら残っていません。残る諸堂は方丈を除いて重要文化財に指定され、とくに大雄宝殿の豪快さは宇治萬福寺の大雄宝
殿に勝るとも劣らない立派な伽藍です。地方と云ってはなんですが、当地権力のバックアップほど力強いものはない例ではないでし
ょうか。




スグ近くの松陰神社に一言だけご挨拶!
▼鳥居を通して本殿です。祭神はもちろん吉田矩方命(よしだのりかたのみこと)こと吉田松陰さんです。







▼松陰さん人となり。







▼松下村塾。塾正面は左側。この面は後に増築された十畳半の講義室。
 今更云うまでもありませんが、無念の死を遂げた志士、維新の政界を牛耳った志士達が松蔭を師と仰ぎ、熱き志を語り合ったのが
 ここ。文さんが隣の実家から塾生におにぎりを運んだのがこの部屋ですよ。真偽は定かならず。






結局タイムオーバーで萩では東光寺のみの参拝だけで大阪へ帰ります。600kmですよ、今日中に帰れるかな。
ピシッー!(迷車大和路号に鞭を入れる音)





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瑠璃光寺、五重塔は日本三名塔の一つ。

2016年05月09日 | 山口の古寺巡り





(2016.05.07訪問)


みなさ~ん、GWどうお過ごしでしたか。
迷車大和路号はGWの六日と七日両日、周防、長門の国を訪問、旧主大内氏が謳歌した西ノ京と毛利氏最後の地、萩の名刹を訪ねる旅
に出かけた訳であります。腹の立つことこの上なし、何の因果か雨にたたられた旅でありました。初日ズ~ッとシトシト、どこも回れ
ず写真も撮れず。夜、湯田の湯で「いい湯だな」をうなり、明日は晴れてよと誰にお願いするともなくお願いし、ベッドにバタンQ~
で貴重な一日がオシマイ。二日目、やはりシトシト。ところが九時過ぎた頃、空が明るくなったんです。勇んで瑠璃光寺へ向ったのは
云うまでもありません。




           ▼瑠璃光寺シンボル五重塔(国宝)。
            この塔を何が何でも見たいがため、
            迷車大和路号はハルバル500kmの道のりをやって来たのであります。






           [ 瑠璃光寺 ]
           ●山号 保寧山(ほねいざん)
           ●寺号 瑠璃光寺(るりこうじ)
           ●宗派 曹洞宗(そうとうしゅう)
           ●開基 陶弘房夫人
           ●開山 大庵須益大和尚(だいあんすえき)
           ●開創 文明三年(1471年)
           ●本尊 薬師如来坐像
           ▲拝観 境内自由   
           ▲山口県山口市香山町7-1 電話083-922-2409
           ▲JR「山口駅」からコミュニティバス香山公園五重塔前行き「香山公園五重塔前」下車 徒歩すぐ
            中国道山口ICから国道262、9号経由15分





▼参道口に寺号碑。






瑠璃光寺縁起 (瑠璃光寺パンフから抄出)
大内氏重臣陶弘房の菩提寺。応仁の乱で戦死した弘房の菩提を弔うために夫人が仁保の地に文明三年(1471年)瑠璃光寺を建立。
大内氏二十五代大内義弘は現在の香山公園に香積寺を建立。義弘は応永六年(1399年)応永の乱で戦死。二十六代弟盛見は兄の菩提を弔
うため香積寺に五重塔を造営中戦死。五重塔はその後、嘉吉二年(1442年)建立。大内氏が滅びこの地は毛利氏が領し、後関ヶ原合戦の
後、毛利輝元が萩入りし香積寺を萩に引寺。跡地に仁保から瑠璃光寺を移築したのが今日の瑠璃光寺です。




▼後ろに山が控え、広々とした境内に一直線にのびる参道。







▼参道右手に憧れの五重塔が緑に埋まっています。
 法隆寺、醍醐寺とここ瑠璃光寺の五重塔が日本三名塔と云われています。塔高31.2m、檜皮葺、嘉吉二年(1442年)建立。







▼独特の屋根勾配と各層軒の出が深いので優美な塔も真っ黒ケ(ヘタな写真の言い訳)。







           ▼正面です。この塔の特色の勾欄が二層目にしか無いのが分かります?
            初層と五層屋根の低減率70%が優雅さの理由、本当に美しい塔ですヨ。






           ▼相輪は普通ですネ。







▼では参道へ戻りましょう。







▼山門です。







▼異様に大きい扁額。山号保寧山と元気な筆です。







▼山門から正面本堂です。







▼妻側が正面の本堂。入母屋造、桟瓦葺。







▼それはそれは超豪華な内陣の荘厳。







▼本尊薬師如来坐像。内陣須弥壇の最奥にお坐りです。紗かチュールの薄物が前に架けられお顔がはっきりしません。







           ▼脇陣の子安地蔵。赤ちゃんを胸元に抱っこしています。
            フル法衣で頭飾を付ける姿は地蔵尊のイメージがありませんネ。







▼薬師堂。此の地にまで彼の地の人はお越しです。考えて見りゃ近いもんネ。







▼本尊薬師如来坐像。全身金ピカ、新しく大きなお像です。







           ▼入母屋造、桟瓦葺、重層勾欄付袴腰の重厚な鐘楼です。







▼庫裏。ココで御朱印を戴きます。







▼庫裏を結ぶ渡り廊下。







▼庫裏の軒に相当使い込まれた魚板。ココではホウ(木へんに邦)とよんでます。







           ▼境内の一角に慈母観音。







▼放生池の畔に手水鉢。







           ▼五重塔を模した石塔。







▼放生池の畔に黄菖蒲。池は睡蓮で埋まっていますが開花はまだのようです。







▼吾唯足るを知る。







▼境内から小雨煙る山を見る。







▼大内弘世の像。
 貞治二年室町幕府と和解し周防、長門、石見の守護となる。本拠を山口に移し憧れの京都を模し西ノ京と称し、大内氏繁栄の基礎
 をきずいた方です。







           ▼名塔を目に焼き付けて瑠璃光寺オシマイ。






▼御朱印です。






名塔はやはり名塔でした。燃える?ような緑に染まり煙雨に霞む山裾に六百年の歴史を刻んできた五重塔は閑かに佇み、千年を超える
名刹とは又違う風情は何とも云えない満足感でした。

それでは長州の志士達が通ったと云う萩往還を一路北へ、維新の英雄達に会いに萩に向かいます。





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九品寺、ご本尊は何処へ行かれたのでしょう。

2016年05月03日 | 京都の古寺巡り





(2016.04.30訪問)


みなさ~ん、GWどうお過ごしですか。
今日はGW二日目土曜日です。土曜古寺巡り今日も行きます。迷車大和路号は第二京阪から京都縦貫道をユックリ長閑に走ってい
ます。早く走りたくてもスピード出ないもんで。
今日は南丹市の古刹巡りなんです。南丹市は亀岡の北、長閑な田園都市はGW我関せずのごとく、車はいない、人もいない、実に
静かな町の山裾を走っているのです。



▼迷車大和路号のアホナビは一本手前の細~い道を指示、150m位行くと突然急坂急カーブ、曲がったトタン行き止まり、どこへ
 行くつもりやお前は……。バックでしか戻れずやっとこさ元の県道へ。50mほど先にこんな参道があるのに。





[ 九品寺 ]
●山号 鴫尾山(しぎびざん)
●寺号 九品寺(くほんじ)
●宗派 真言宗御室派(しんごんしゅうおむろは)
●開基 伝 弘法大師空海(こうばうだいしくうかい)
●開創 伝 弘仁元年(810年)
●中興開山 白川上皇(しらかわじょうこう)
●中興 覚行親王(かくぎょうしんのう) 白川上皇第三皇子
●本尊 三面千手観音菩薩立像(現安置場所 京都市西京区の正法寺)
▲拝観 境内自由   
▲京都府南丹市船阪大門47-1 電話0771-62-3704
▲JR嵯峨野線「園部駅」京阪京都交通バス八田線「九品寺」下車
 
 京都縦貫道「八木西IC」から約10km





▼仁王門(重文)。三間一戸、重層楼門、入母屋造、檜皮葺、八脚門。両脇に仁王像が安置。鎌倉後期。
 かって創建時の遺構を伝える唯一の建造物。要するにこの仁王門しか残っていないと云うことです。






九品寺縁起
寺伝によると、弘仁元年(810年)弘法大師の開基と伝えます。承暦三年(1079年)白河天皇が行幸され、船井郡十一郷に及ぶ広大な
寺田を寄進された上、皇子の覚行親王を中興開山として復興されたと伝えます。
戦国時代明智軍の兵火で衰微、元和九年(1623年)園部藩主小出吉次が再興。その後明治の廃仏毀釈、神仏分離は九品寺にも荒廃
をもたらし、第二次世界大戦後には仁王門を残すのみとなりました。




▼金剛力士阿形像。












▼金剛力士吽形像。












▼仁王門から石段が見えます。いやな予感!







▼増々いやな予感、先行き真っ暗。







▼蹲踞も成り行き任せ。







           ▼観音さんがお立ち、ちょっとホッとします。







▼参道を少し行くと右手に石段、庫裏の山門かなと潜っても堂宇などは見当たらない。







▼殆ど倒れかけの鐘楼がありました。







▼参道石段脇の暗~い所に遠慮がちに咲くシャガ。













▼あの上に見えるのが本堂。







           ▼石段中途に寺号と八十八カ所霊場石碑が。







           ▼本堂の屋根が見えてまいりました、やっと最後の石段です。







▼本堂、緑だらけで堂景定かにあらず。







▼堂名の木札が観音堂と書かれ中を覗くと……、







           ▼どう考えても本尊の観音さんではない仏像が祀られています。大日さんだと思われます。






           本尊は三面千手観音菩薩立像(重文)と聞いていたのでこれはどうしたことでしょう?
           どうも京都市西京区にある正法寺の本尊がここ九品寺の本尊であるらしい。
           なぜ九品寺の本尊が正法寺に?

           何方か解答を知りませんか。

           ▼このお像が噂の三面千手観音菩薩立像です。(以前正法寺を訪ねた時の写真です)







▼こう云うアングル写真では本堂の重量感を出すことは出来ませんネ。







▼やはり緑だらけの本堂。正面に引きの無い平地に建っています。







▼本堂を少し下った所、中興覚行親王のお墓が、宝篋印塔がなぜか二基。







▼船坂観音霊場参道。九品寺は船坂観音霊場として三十三寺院の本尊を祀り、巡礼道が整備されています。そのうち数ヵ寺の本尊を。







           ▼最初になぜか第二番、紀三井寺の福寿観音、石像。







           ▼第一番、那智山 青岸渡寺 如意輪観世音菩薩、ブロンズ像。







           ▼第四番、和泉国 施福寺 千手千眼観音菩薩、石像。







           ▼第五番、河内国 葛井寺 十一面千手千眼観世音菩薩、石像。



       お像の精巧さ、緻密な彫りにはビックリします。特にこの十一面千手千眼観音には言葉も出ません。




           ▼第十二番 岩間山 正法寺 千手観世音菩薩、ブロンズ像。



これ以上奥へは行く気になれず、なぜかゾクゾク、人っ子一人いない鬱蒼の山道、早い話コワ~いですのでココまで。





▼逃げるようにして仁王門まで戻ってきました。





仁王門を初めて目にした時、相当立派なお寺だこれは楽しみ、が仁王門を潜って参道石段の上を見ると緑鬱蒼の薄暗~い空間、
まるで緑のブラックホール。緑萌え出る絶好のシーズンとは云え暗~い濃~い緑の中に入ってゆくのは勇気がいります、森林浴
どころじゃないですヨ。
九品寺は仁王門と本堂のみのお寺です。しかし門~石段~堂の間にはしびれるような空間が待ってます。
皆さん、一度しびれに来られたらいかがでしょう。





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