塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

パルセイロは来期もバック3を採用すべきではないか

2015-11-18 22:54:10 | 日記
 素人や俄かが戦術や布陣に言及すること。

 これがサッカーのだいご味であり、監督業をややこしくしている中身でしょうか。

 僕個人は来期の長野パルセイロは

 1・バック3を維持する
 2・バック3に精通した指揮官を招く

 ことが良いと勝手に考えています。

 パルセイロの台所事情がさほどではないことは皆が承知しています。

 ですから、持続できる個所は持続し、同時に選手を適切な判断で手放すことで、クラブのスリム化を推進すべきだと思います。

 昨年ならば、松尾がFC琉球に移籍しました。

 この移籍は以前に在籍していた藤田信と同様ケガの影響が色濃く、周囲も本人も

 「ここ数年は満足に働けていなかったなあ」
 「移籍リスト掲載もやむなしだ」

 と思えるものでした。

 致し方ない、次で頑張ろうという確固たる理由があります。

 でも、ガイナーレに移籍した畑田、琉球に移籍した田中のように、残留が基本と考えていた選手の移籍は、ファンを不安にさせます。

 ですから

 1・指揮官が本当に戦力として考えるならば、テルのような高齢選手も残留を基本とする
 2・監督が不要と感じたならば、すぐに移籍を勧告して、トライアウトを含む準備期間を長く与える

 ことは必要ですよね。

 確かに解雇通告を行う作業が、凄く勇気がいります。

 でも誰かが行わなくてはいけませんし、そこから得るものがあるのがプロ・サッカーです。
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日本代表の葛藤とは何か

2015-11-18 15:34:39 | 日記
 僕は業務で主任から仕事を任されると、すぐに「はい」と答えてしまいます。

 日本では素直という評価なのでしょうが、欧州、特にサッカーでは自分の考えを持ち合わせていないという形になるのでしょう。

 逆に僕は

 「僕より場数を踏んでいる人間の言うことだ」
 「だから僕より優れた考えに違いない」

 と判断しているのです。

 日本人は教育、特に幼少時代から両親や祖父母、教師のいうことに順応して育ちますから、自然と疑い、良い考えを提案するということが思いつきにくいのでしょう。

 今、代表は

 デュエルと呼ばれる1対1の強化
 縦に素早く展開すること

 を目指してます。

 前者はすでに2006年ごろから、中田秀寿が

 「カバーリングやプレスには限界がある」
 「対人を強化しなくては意味がない」

 と指摘していました。

 後者に関していえば、監督の指示を尊重しすぎるために、遅効、サイドチェンジ、ダイアナゴル・ラン、デコイというような多様な走り方とパスが、鳴りを潜めている。

 そう指摘する声があがりました。

 僕も顕著ですが

 「上司の判断を裏切った」

 という自己判断における嫌悪感がどうしても胸ににじみ出てしまいます。

 選手たちもその心情がきっと沸き起こるのでしょう。

 こうした上司、監督との対話、自我との葛藤は、成長期によくみられるものですが、サッカーに限らず現代社会のどこでも見られる光景になっている気がします。

 来年は五輪もありますが

 「アギレ政権ならどうなっていいただろうか」
 「監督交代すべきか」

 という議論が起きないと良いですね。
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当たり前だがスパイクの開発も楽ではない

2015-11-18 01:34:38 | 日記
 逆にブランドが契約選手にそっぽを向かれてしまった例もあります。

 2006年ワールドカップに向けて、ロットが開発したゼロ・グラビティは「スリップオン」という、まさに画期的なデザインでした。

 しかし、ワールドカップという大事な大会に、前例のない靴を履いて戦うだけのゆとりが、契約選手には備わっていなかったのでしょう。

 ロットの愛用者は皆、ゼロ・グラビティを敬遠し、従来の紐付きスパイクで戦いに挑んだのです。

 ナイキがトータル90を市場に投入した際、ランニングの世界で高い評価を得た

 「エア・フットスケープのデザインを踏襲」
 「靴紐を甲の中央からずらすことで、血行を妨げない形で選手の健康を保つ」

 形を導入した時も、大きな驚きでした。

 ただ、このトータル90を愛用し、欧州選手権2004に挑んだトッティが

 「ナイキの靴が合わない」
 「いや、それはプーマが手掛けるストッキングの感触のためだ」

 と、ナイキとトッティの問題にプーマが「勝手に」挟まれるという事件もありました。

 それだけスパイクを開発することが難しい上に、どんな緻密なデータを駆使しても選手から良い返事は得られない時もある、という具合です。

 1980年代までサッカーは牧歌的であり、イタリアが82年ワールドカップを制覇した際は、契約上の都合でスポンサーであるル・コックの露出がありませんでした。

 今ならばまず存在しない出来事でしょうし、ル・コックからすれば大きなチャンス・ロスになったと批判が集まる形です。

 ピッチに広大な空間があったように、スパイクのリニューアルそのものの頻度が少ないことも含めて、当時は良かったとオールド・ファンは感じるのでしょうか。
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選手と契約ブランドの静かな争い

2015-11-18 01:25:23 | 日記
 フェルナンド・モリエンテスは晩年アディダスを履いていましたが、彼自身はデビュー当時から故郷に近いブランド、ホマを愛用していました。

 彼自身はずっとホマを愛用したいと考えていたようで、彼らが提示する契約金にも満足していた様子です。

 しかし、レアルはクラブも同僚もアディダスが多かったために、アディダスに切り替える形になりました。

 選手も人気と実力が正比例すればブランドが契約金を用意し、契約を結びます。

 ベッカムがアディダス一筋であったことは有名ですが、トッティのように実力があれば、仲たがいしたかつての契約先(ナイキ)に、間を挟んで(ディアドラ)復元することすらあります。

 でも、一概に契約が選手に実りをもたらすかと言えば、不自由な面もあるでしょう。

 選手が提供されたスパイクをいたく気に入る
 しかし、ブランドは新しいスパイクを開発しなくては儲けがない
 したがって選手は、新しいスパイクを否応なしに履く形になる

 これらはどのブランドでもジレンマだと思います。

 特に近年は商品のサイクルが早いうえに

 ナイキならマーキュリアル
 プーマならエヴォ・スピード

 というように、シリーズ化した商品は高い知名度を誇ります。

 言い換えれば選手よりも

 「ファンが楽しみにしているために、新作を常に準備する」

 という形になります。

 選手が気に入ったスパイクを書き続けたい、しかしブランドは広告塔である選手に新作を履いてほしい。

 この駆け引きが選手は嫌にならないものでしょうか。

 むしろモレリアのように、改良してモレリアⅡ、モレリア・ネオのように派生形を生むような本格派は、じっくりと履きこむことでこそ味わいが増す側面があります。
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