蜜柑のつぶやき ~演出家の独り言~

NPO法人劇空間夢幻工房の演出家/青木由里の日々の呟き。脚本執筆・役者・ワークショップ講師も兼業する舞台人日記♪

劇空間夢幻工房 創立25周年記念公演「ISHIN version.2024」

NPO法人劇空間夢幻工房 創立25周年記念公演
タイトル 『ISHIN ~狼たちは最果てに~ version.2024』
脚本・演出 青木由里
出演 青木賢治/栗生みな/村松沙理亜/清水まなぶ/井田亜彩実/導星ゆな 他

日時 2022年9月8日(日)11:00~/15:30~
会場 飯山市文化交流館 なちゅら 大ホール
チケット予約フォーム:https://www.quartet-online.net/ticket/ishin2024

皆さまへ感謝を込めて晴れやかに開催‼
どうぞお楽しみに‼

江戸時代のパン

2016年12月20日 16時35分26秒 | 日記
直虎公が羽織にポケットを縫い付けて
その中にパンを非常食として持ち歩いていた…

という史実がある。

江戸時代のパンって、乾パンみたいなモノかな・・・


よし!
ついでにパンの伝来も調べちゃおう(^^)

ってわけで、パンの歴史を調べてみた。


①発祥の地は古代エジプト
 紀元前、古代エジプトで世界に先駆けて本格的な小麦栽培が行われていたそうな。
 その後小麦を原料としたパンも誕生。
 遺跡や王様のお墓から発酵パンが発見されている。

②日本で小麦の栽培がはじまったのは弥生時代。
 その後、小麦粉を練った生地で作る「蒸餅」「焼餅」という食べ方が中国から伝来。

③生地を発酵させた「西洋風パン」が伝わったのは室町時代。
 1543年(天文12年)種子島にポルトガル船が漂着し、鉄砲とともに伝わった。
 新しいもの好きの織田信長公も好んで食べていたとか。

④鎖国によりパンは普及されなかった。
 徳川時代、鎖国政策が採られ、キリスト教の布教禁により
 唯一オランダ人の入港を許された長崎の出島のみ
 パンが細々と生き残ったそうな。

⑤江戸時代後期の天保11年(1840)清とイギリス間でアヘン戦争が勃発。
 日本でも国防の危機感から西洋技術を取り入れる動きが強まる。

 直虎公はまだ4歳です。

 長崎出身の洋式砲術家の高島秋帆(しゅうはん)が
 腐りやすい米飯に代わる兵糧として、乾パンに着眼したされる。

 秋帆は韮山代官江川英龍(坦庵/たんなん)の西洋砲術の師だった。

 天保13年(1842)4月2日、江川英龍が山へ狩猟に行く時にパンを携帯したら
 とても便利であったことや
 秋帆の配下でパン製法を知る長崎の作太郎が江戸に滞在している間に
 彼から技術を得るようにと書簡を江戸詰の柏木総蔵(手代の柏木忠俊)へ宛てたそうで。

 英龍は饂飩粉をベースに「味が良くなる卵や砂糖を加え…」と書いているので
 菓子パンのような美味しさも考慮していたようだ。

 柏木はすぐに英龍の指示に従いパンを試作し
 薪の量や火加減から窯のことまで製法が事細かに書いて
 8日付けで返事を出す。

 「小麦粉一品に塩で味を付け……大きさは厚さ三分(約1cm)ばかり
  差渡し三寸(直径約9cm)ばかり、それを一度に一つ半
  大食らいの者は二つも食べ、その後湯茶水を飲めば腹の中で増える…」
 と、菓子よりも主食としての味付けを優先し
 より長期の保存、軽さ、腹持ちを考え、農兵の携帯食として適した形に…

という表記が残っているそうだ。

パン業界ではこの江川太郎左衛門を日本のパンの祖とし
4月12日にちなんで、毎月12日をパンの日と定めている。

江川英龍(えがわひでたつ)さん…か…

こうなると英龍さんが気になる。

どこかで見た覚えのある名前のようにも思うし…

寄る年波のせいか、何度も読まないと
すぐ忘れてしまうのは、マジ困る。

が、今はネットという便利なものがあり
忘れても調べればすぐにたどり着けるから有り難い。

さて、江川英龍公とは・・・

幕末期に「世直し江川大明神」とよばれた名代官
鎌倉時代から明治維新を経て江戸時代に至るまで
民政一筋に生涯を投げ打った世襲代官
それが江川太郎左衛門である。
太郎左衛門の呼び名は江川家の代々当主の世襲通称とのこと。
英龍は江川家の第36代当主である。

英龍は享和5年(1801)5月生まれ
代官職を継いだのは天保6年(1835)35歳の時


天保8年(1837)外国船が浦賀沖に現れ
幕府は異国船打ち払い令を制定。
世に云う「モリソン号事件」が発生。

モリソン号は浦賀に来て砲撃するが
日本は全く太刀打ち出来なかった。

江川英龍も代官職として管轄区域の伊豆
相模湾沿岸の海上防備に危機感を持つようになっていく。

当時日本の沿岸警備の大砲は青銅製の旧式
砲術の技術も古めかしいものだった。

英龍は幕府老中水野忠邦より正式な幕命として
「高島秋帆(※1)」に弟子入りして
長崎で近代砲術を学ぶ。

技術習得後全国の藩士達に伝授し教育した。

佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎(木戸孝允)等
多くの逸材が英龍の門下で学んでいる。


お?繋がって来たね~~

直虎公は象山先生から赤松小三郎氏を紹介され
洋式軍制について学び、他藩に先駆けて
須坂藩に洋式軍制を導入したのです。


嘉永6年(1853)ペリー艦隊が浦賀に来て開国を迫る。
いわゆる黒船来航だ。

困った幕府は江川英龍を「勘定吟味役格」に登用し
老中・阿部正弘の命で江戸湾に台場を築く指示を下す。

しかし翌年(1854)日米和親条約が締結されると
予定した台場(※2)10基のうち
5基が完成したところで工事を中止。


英龍は、この間大砲の脆弱性を見抜き
外国船の持つ鉄製の大砲に太刀打ち出来るよう
製鉄炉の調査を開始する、

当初は伊豆下田に建設予定であったが
韮山に反射炉を作り、鉄製の大砲を製作する準備を始める。

が、志半ばで英龍は死亡。
英龍の子の江川英敏が遺志を引き継ぎ完成させた。
洋式軍艦も製造したそうだ。

親子二代で、偉業を成し遂げたんだね。
親の志を引き継いだ子も素晴らしい。

彼は太平洋に面する伊豆に生まれ育ち
日本に迫り来る異国船の脅威を肌で感じて
他の日本人に先駆けて対応するための具体策を
幕府に建言するとともに
自らの全生涯をかけて異国に対処する取り組みに没入した。

●蘭学者との交流を通じた危機の認識
●高島秋帆に師事しての西洋砲術の導入
●農兵軍の組織
●銃器工場の建設
●破裂弾の研究開発
●江戸湾における台場の築造
●大砲製造のための反射炉の建設

そして、パンの祖とも呼ばれるまさに偉人!

にもかかわらず、江川英龍公の名前はあまり知られていない。

それは何故?

不思議に思って調べたところ下記の記述を発見。

江川英龍は、戦前には「国防の先覚者」として
教科書にも取り上げられるヒーローだったという。
しかし、戦後の反戦平和の風潮は
その反動として彼の名を学校教育の場から消し去ってしまったのだ。

・・・・・・

日本だね、まさに・・・

・・・・・・

こういう隠れた偉人、まだまだいるんだろうな…


堀直虎公もそのお一人!

歴史の影に沈んでいる日本の礎をつくった人々を
浮かび上がらせて、多くの方に知っていただきたい。

歴史は絵空事でも説話でもない。
私達の祖先が生きた時代に起きた出来事
実際にあった出来事なのだ。
私たちに関係ないと思ったら大間違い。

今の日本が作り上げられる過程の出来事であり
日本の姿を知るための早道でもある。

と、私は思っている。

一生かかっても知ることができるのは
ほんの僅かだけど、知ることで
見えなかったモノが見えてくる・・・

だから歴史は面白い(^^)

パンの伝来を調べていたら、直虎公につながる
エピソードを発見!!

再演って、こうして深まっていくんだね。

来週から取り掛かる予定の台本執筆が楽しみになってきた。

おーっと!
とっちらからないように気をつけねば(汗)


※1 高島 秋帆(たかしま しゅうはん)
 砲術家。高島流砲術の創始者
 寛政10年(1798年)、長崎生まれ。
 日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とし
 出島のオランダ人らにオランダ語や洋式砲術を学び
 私費で銃器等を揃え1834年に高島流砲術を完成させた。
 日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行い
 幕府から砲術の専門家として重用されることになる。

※2 台場
 台場(だいば)とは、幕末に設置された砲台で、要塞の一種

現代の観光スポットお台場の歴史です。