駅のエスカレーターも、大学のエレベーターも動かない。だから階段を昇る。ひたすら昇る。自分の足で昇る。ひたすら昇る。
ちょっと前までは、健康のために階段を昇るエクササイズだったのが、今は日常となる。
それが普通であることが望ましいと思える日が来るのだろうと。そんなことを思いながらひたすら昇る。
そういう行為の積み重ねが、さらにはそういう行為を厭わない人々の心の積み重ねが大事なのだと思いつつ。
駅のエスカレーターも、大学のエレベーターも動かない。だから階段を昇る。ひたすら昇る。自分の足で昇る。ひたすら昇る。
ちょっと前までは、健康のために階段を昇るエクササイズだったのが、今は日常となる。
それが普通であることが望ましいと思える日が来るのだろうと。そんなことを思いながらひたすら昇る。
そういう行為の積み重ねが、さらにはそういう行為を厭わない人々の心の積み重ねが大事なのだと思いつつ。
東日本大震災から2週間余りが過ぎた。東京でも余震は続き、原発の不安は消えない。その中で何をすべきか。ここが考えどころだ。
被災地に住む人々の日々の様子に思いを馳せる。自分ができる範囲で、募金をする。それも大切なことだ。
買い占めもせず、買い惜しみもしない。いつものように飯を食い、人と会う。普段どおりに生きること。それも私たちに求められることなのだ。
サバイバーギルティー。そんなふうに萎縮して、何もかもから引きこもってしまうこと。それは自分の「気休め」にしかならない。
普段どおりに生きていく。同時に、被災した人々の暮らしの苦しさや不便さをを想像する。それが両輪となって事態を切り開いていくのだと思う。
昨日の朝日新聞朝刊の記事によれば、福島第一原発の危険性は1990年代から指摘されていたという。
東電が想定していた津波は5.4メートル。今回の津波は14メートルを超えていたそうだ。大きな被害がなかった東北電力女川原子力発電所(約120キロメートル北に位置)は9.1メートルの津波に備えていた。
869年の貞観津波は仙台平野の海岸線から約3キロの地点で波高が3メートルもあったことが、1990年に報告された。推定された地震規模はマグニチュード8.4。東電が原発沖で想定していたM7.9の約6倍の強さだ。福島第一原発が設計されていた1964年当時には、そのことは知られていなかった、その後、地震学の専門家からは、過去に造られた原発の安全性について、こうした最新の研究成果で見直していないことに警鐘が鳴らされていた。耐震指針を見直そうという動きは90年代からあったが、結局は産業界から圧力がかかり、耐震指針が全面改定されたのは2006年になってからだった。
今回の事態は、東電の清水社長が会見で話したような「想定を大きく超える津波だった」ということでは決してなかったのだ。
今日は卒業式だった。いつもであれば華やかなキャンパス。袴姿の学生もまばら。卒業式典が中止となったからだ。これから社会に出て行く学生たちにとって、こんなに過酷な試練はない。でも、人生は続くのだ。これからも。いつまでも。一人では苦しくても、二人なら耐えられる。三人なら壁を超えて、次のステップに進んでいける。前を向こう。さあ前を向こう。卒業生とともに、私も歩んでいく。
14時46分に地震が起きたときには、9階の演習室で大学院ゼミをやっている最中でした。二人目の発表の途中で、みんな何が起きたのかわからず、その場にとどまっていました。
長く強い揺れが収まってから避難する前に、同じフロアーにある自分の研究室に入ってコートと鞄を取ろうと思ったのですが、書架から落ちてきた荷物でドアがふさがれて、すぐには入れない状態でした。何とかこじ開けて中に入り、必要なものだけ手に取って院生と一緒に建物の外に出ました。
今週月曜日に大学に行き、部屋を点検したところ、かなりの本が書架から落ちていました。壁に掛けてあった時計は床に落ちて壊れており、15時2分を指して止まっていました。
プリコジンの『確実性の終焉』も落ちていました。何という皮肉でしょう。
でも日は昇ります。必ず、また日は昇ります。
遠近と書いて「おちこち」と読む。未来と現在のこと。NHKで放送している「恋する日本語」という番組で初めて読み方を知った。
おちこち。言葉の響きがいい。恋人との関係を思いつつ、未来と現在を行き来する。風情たっぷりな言葉である。
大和言葉を手がかりに時間について論考してみるのもいいかもしれないと思ったりした。
昨日はゼミの卒業生の結婚式。式場は御殿場。OBやOGたちといっしょにお祝いした。挨拶で一句披露。
結ばれて真白き富士を二人占め
仲良く幸せな家庭を築いてほしいと願う。用意しておいて折句を書いた色紙をプレゼント。喜んでもらった。
大らかに可憐な乙女抱き寄せて勇者は進む自分の道を
気立てよき美しの君千代の世に綾なす錦野の花に似て
副題に「本気で考える人のための創作活動のススメ」とある。清水義範の小説が好きな私は、思わず手に取ってレジに向かったのである。この本を読んでも、それだけで小説家になれるわけではない。そんなことは重々承知の上で、何か一つでもヒントになればと読み進んでいく。
どんなに苦しくても、希望の成就をあきらめないというのは、その人の才能である。(103頁)
そうそう、そうだよな。叩けよ、さらば開かれん。それの心が大事なのだと、独りごちする。
「自分がこれが書きたいんだ」という思いが、ちゃんとある人間の書く物には、人を引きずり込むような力があるのかもしれない。(123頁)
そうそう。問題意識のはっきりしない文章は、読んでいても頭の中に入ってこないもの。思いが大切なのだと改めて確認。
文章指南の本として、得るところが多かった。
清水義範 『小説家になる方法』 ビジネス社 2007年
俳句を始めてから2年。まだまだ初心者の部類である。多作、多捨、多読と言われる。それにも、やはり年月が必要だ。他の人はどうしているか、ちょっと気になる。そこで本書を手に取ってみる。
今回読んだ本は、俳句を始めたばかりの著者の一年余りの体験を綴ったもの。エッセイストだけに、言葉の感性が鋭い。言葉の選び方、推敲の様子が子細に書かれていて面白い。
五七五の中で、たった一文字の違いが秀句と駄句を分けるとよく言われる。そういうことも句会に出て、実体験していくことで身についていくものだ。世の中ヴァーチャルが優位だと言われることが多いが、やはり面と向かった人間関係が大切であることを読後、改めて感じた。
岸本葉子 『俳句、はじめました』 角川学芸出版 2010年