毎日思うこと。失敗しても良いが、そこから学ばないと何も得られない。うまくいくことが、3割ぐらいだったら、OKかな。
この歳になって、統計の勉強を改めてやり直し、合わせてRの勉強を始めた。2ヶ月ほどになるが、分かりやすい本を読んで、基本を押さえると、全体がよく分かってくる。
これまでは、因子分析、分散分析、回帰分析などなど、別々の方法として理解してきたものが、共分散構造分析のもとで、一つの原理として捉えられることを改めて理解したことは、とても良かったと思う。
新しいことを知ることで世界が広がる。そして、そのことで、また違った物事の見方を知る。そんな連鎖を実感する日々。ありがたいことである。感謝多謝。
1+1
これはいつも正しい。でも、ときどきは3だったり、1だったりするのが、この世の中だ。
だから、1+1の答えを、自分で見つけないといけない。
思えば、子供の頃から数字が好きだった。電車に乗ったら、窓の外を見て、電信柱の数を1、2、3と数えていた。母と買い物に一緒に行くと、買ったものの値段を足していくのが常だった。
そんな私が、今、仕事でやっているのが、集めた調査データを分析して、結果をまとめ、それを論文や学会発表にまとめること。
対象は異なるが、やっていることは、子どもの頃と、あまり変わっていないような気がする。
難しそうに見える統計も、基本は平均と標準偏差。足し算と割り算を地道にやっていくことなのだ。
そういう意味では、子どもの頃と変わらない日々を送っているということなのだと思いながら、今日も数字を向いあう。
夕方、雨があがったら、セミたちが一斉に鳴き出した。ニイニイゼミ、ヒグラシ、ミンミンゼミ。
このあたりは、まるで森のようだ。
今年の学会に加えて、来春に開かれる学会もオンラインでの開催となった。
混雑するポスター発表も、立ち見が出るようなシンポジウムも、NGということなのか。
今年、大学院に入学したMC1年生にとって、学会はオンラインということになる。
研究者の、研究の、継続性と発展にとって、今年は大きな節目になりそうな気がする。
最近よく耳にする多様性(ダイバーシティ)。
金子みすずの詩の中にある「みんなちがって、みんないい」。確かに、違っていることを認めるということでは、いいのだろうとは思うが、それだけで良いのだろうかという疑問が沸き起こる。
違っていることを認めた後に、どうすればいいのか。その違いを縮めるようにするのか、その違いがそのまま続いていることを認めるのか。この二つは、全く異質な考え方である。
国民の間の格差が広がっていく今の社会におて、違いを違いとして認めつつ、その違いを埋めていく営みが、求められていると思う。、
感染者と観戦者。
感染者が増えると困るが、観戦者が増えると嬉しい。
感染者が増えると、観戦者は増えない。
A観戦者とB観戦者の関係は、微妙なバランスの下にある。
それをしっかりとコントロールする適切な政策を打ち出せる人がいない、という悲劇的な状況が、今の日本。
このところの政府の打ち出す「政策」は、思い付きの範疇の超えないものが多い。税金の無駄遣い、朝令暮改。
家計であれば、こんな適当なことができないのに、国家予算だと出来るのはなぜだろう。自分の懐が痛まないからか。
自分でも、よくわかっているのだが、細かいところが気になる傾向がある。
研究結果を表にする時に、小数点の桁数が違っていたりすると、気になってしまう。センター揃いと左揃いが入り混じっていると、直したくなる。もちろん、フォントが混じっているのは絶対ダメ。
こんなふうだから、思わぬ所で結構な時間を使ったりすることもある。
それでも、研究者としては細部に拘るのは、決して悪くないなと思う。
適当な表を作ったり、適当な分析をしたりして、いい加減な仕事をすることはないからだ。
急がば回れ。結局は、こうして地べたを這い回るようなことが大切なのだと思っている。
買い物に出かけたので、少しは歩いた。でも、それだけ。先月と比べると、歩いた歩数が少ない。雨模様の日が続いているから、仕方がないか。
何かを目指して進む人間。
状況に合わせて行動する人間。
どちらがいいとか、悪いとかということではない。
どちらもあり得る。
前者と後者の違いは、直線と曲線に喩えられるかもしれない。
AならばB、BならばC、というように直線的に進む前者。
A出会ったも、いくつかの可能性があり、その中から、BあるいはCを選ぶ後者。
どちらがいいとか、悪いとか、そういうことではない。