ふりそそぐ 日を喜びて 野辺の草 夢詩香
*きついのが続くと、やはりやさしいものが欲しくなりますね。甘すぎるかのじょの歌や詩のようなものは作れませんが、わたしもこういう句は詠めます。
先日、試練の天使と一緒に、この近くを散策していた時に詠んだ句です。わたしたちはこの一つの肉体に、微妙に位置をずらして同時に存在していますから、一人が行動していることを、みんなで共有することができるのです。
広い道からそれて、突き当りに塀のある細い道に入っていくと、わきに荒れ放題の小さな庭があって、そこに、野生化したミントの草むらが茂っていました。それが、冬の日を浴びている様が、まさにこういう感じでした。
こんな小さな狭い庭にも、日はふりそそいでくれる。草はその愛のありがたさを知っている。だから、まるで親を慕うように一心に上に伸びているのです。
写真を撮ったのですが、あまりよくとれなかったので、これで代用です。ミントは少し気難しくて、あまりよい顔をして写ってくれないのです。花や木の性格によっては、カメラにいい顔をしてくれるものとそうでないものがいるのですよ。そこはそれ、花には花の、それぞれの心があるからです。
だが、カメラには気難しい顔をする草も、日を浴びる時には素直な顔を見せてくれる。まるであれは、澄んだ信仰のようでした。ミントは、神を、あまりに澄んだ気持ちで愛しているのです。甘い愛を惜しみなく注いでくれる神の、あまりに大きく、幽玄というしかない美しすぎるものが、身近にありふれて存在していることが、あまりにうれしいのです。
美しい、美しい、美しい。
滴る愛に、心の芯をあらわにして、幸福をそのまま感じる時の自己存在は、あまりに満ち足りている。
そんな様子を、わたしはあの時みたのです。田舎道の突き当りにあった、手入れもされていない見捨てられた庭で、人知れず茂っていた青いミントが、美しい神への信仰を、静かに編んでいた。
信仰とは、金を払ったり吸い取ったりするものではない。降り注ぐ愛に、あまりに大きすぎる暖かさを感じた時、愛よりも大きな崇敬が自分の中に起こる。そのとき自己存在というものは、信仰と言わざるを得ないような心の中に自分がいるのを発見するのです。