燕雀も 志持つ 鳥の恋 澄
*これは、わたしの作ではありません。かのじょが生きていたころに詠んだ、数少ない俳句の一つです。忘れてなくしてしまうのも惜しいと思い、ここで取り上げてみました。
こういうことわざがありますね。
燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや。
燕雀とは文字通り、ツバメやスズメのことで、鴻はヒシクイのこと、鵠はクグイで、白鳥のことです。
要するに、大人物の志は、小人物には理解できないということの譬えに使われます。
中国は秦代の末期、陳勝という男が農夫をしていた時に言った言葉だと言われています。陳勝は後に秦に反乱を起こし、一時は王になるほどの勢いを見ますが、すぐに討伐軍に打たれて敗死しました。
反乱は項羽や劉邦に受け継がれていき、やがて秦は滅ぶのですが、しかし、陳勝が大人物かと言われれば、わたしは疑問符を打ちますね。彼は農民の憤懣を膨らませていたにすぎない。大きな志というものは、もっと別のものだ。
本当の大人物なら、あんな妄言はしないものですよ。自分のことを鴻鵠にたとえたりなどしない。ツバメやスズメだとて、いなくてはこまるものだということを知っている。人間の運というものは、神の導きだということを、肌で知っている。馬鹿な大言を吐けばどういう反動が来るかということを知っている。
それはともかくとして、表題の句は、ツバメやスズメのような小さなものでも、恋には大きな志を持つという意味です。それはもう、できるだけ美しい異性を求める。
かのじょ自身はこれを、やさしい心で詠んでいました。小さなものでも贅沢をいうのが恋というものだなあ、かわいいなあという感じです。だが、わたしは違う感じで受け止めますね。
馬鹿な男ほど、一番の美人ばかり追いかけるものだ。それでいやなことばかりするものだ。
ツバメはツバメに恋していればいいのに、なぜか白鳥のような天使に恋をしてしまう。そんなものを追いかけたとて、いやなことになるだけなのに、何もわからなくて、馬鹿なことばかりする。それで大変なことになる。
鷦鷯が鷦鷯の家に住むように、燕は燕の妻を持つべきですよ。自分の分というものがわかっていないものほど、責任もとれないくせに、馬鹿な大言を吐くものなのです。