玉のごと ため息を積み 霧雨の むかふにぞ見る 月の庭木戸
*昨日は、雨のことなど書きましたので、今日はこういう歌をとりあげてみました。「霧雨(きりさめ)」は、文字通り、霧のようにきわめて細かい雨のことです。糠雨ともいう。
かのじょが若い頃に構想していた物語に、「霧雨遊園地」というのがありました。残念ながら構想のみで作品にはならなかったのですが、おもしろい設定だけは覚えています。
霧雨の降る日には、不思議な遊園地に行ける入り口が開くというのです。一筋の特別な雨が、この世界に線を描いて降るとき、その線に触れると、その遊園地への入り口が開くのです。
物語の構想では、ある少年がその入り口を抜けて、不思議な遊園地に入っていき、そこで不思議な子供にあって遊ぶのです。おもしろい子供で、わがままでぶしつけだが、傷ついた心を抱えていて、憎めないようなかわいいところがあるという感じでした。いろいろと遊んでいるうちに、主人公の少年は、その子が、反抗していた自分の父親の、小さい頃の姿であることを知るのです。
霧雨遊園地で、父と子が、同じくらいの少年になって遊んでいるうちに、互いの心を深く理解しあうという話でした。
かのじょがこれを書くことができなかったのは、モデルにしている自分の父親が、理解しあえるほどに成長した魂ではなかったからです。構想は起こしたが、話を追いかけても、どうしても自分の父親と理解しあえる結末を思い描けなかったのです。
ですからこのアイデアは、書かれないままお蔵入りとなりました。だが、そのまま忘れ去るには惜しいので、ここで書いてみました。
玉のようなため息を積み重ね、霧雨の向こうに見ている。わたしの本当の故郷である月の国の、我が家に通じる庭の木戸を。
この親の子として生まれてはきたが、血のつながりさえ半分疑うほど、違うことを感じていました。かのじょは確かに父親の子なのだが、見ていると、遺伝をさえ感じない。全く関係のない他人だと言われても、すんなりと信じてしまいそうだ。
わたしたちは、人間とは違う存在ですから、どんな親から生まれても、だいたいこんなことを感じます。どうしても、なじめないものを感じる。そしていつしか、自分は全く違うところから来た、人間とは別のものだと感じるようになってくる。
霧雨遊園地のようなところへ行っても、わたしはあの子と遊ぶことはできないだろう。何かが違うと感じて、通りすぎてしまうだろう。そして、本当の故郷にある我が家の庭木戸を探すだろう。そこに帰れるものなら帰ってしまいたいと思うだろう。
だが、帰るわけにはいかない。自分にはやらねばならないことがあるから。
霧雨の向こうに異界への入り口があるということを想像したとき、あの人は故郷への入り口を垣間見たのです。ですから、あの物語を、あれ以上追いかけることはできなかったのです。