男気を 糞に落として 恥を噛み 馬鹿な男は 涙も憎し
*「糞(くそ)」という言葉を含む歌は採用しないことにしていたのですが、これはおもしろいと思って、取り上げました。第3館の糞の歌の詠み手とは違う人ですよ。あちらの歌を詠んだ人は、ちょっときつい人です。まあ時にはわたしたちも、若干品のないことをすることもできるのです。
「ゆばり」とか「ゆまり」は小便のことだが、語感がそれなりにいいので使いやすいですね。だが、「糞」はかなり難しいです。要するに、汚いものや賤しい者の中でも、はなはだしく痛いものだ。人間誰しも糞をひるが、出したら二度と振り向かない。触りたいなどと思うものはまれだ。野糞などを踏んでしまうようなことがあったら、それをひった奴を心底憎む。糞は糞らしく厠か畑にでもいればいいものを、時々とんでもないところにいる。
人間が最も嫌がる汚いもの、という意味で、糞ということばは実に有効な働きをしてくれます。
男気というものを、糞のように汚いものにしてしまうほど、嫌なことをして、恥ずかしいなどというものではないことになって、馬鹿男はまだ悔いることさえできない。涙が出てくることさえ憎いのは、自分の馬鹿さ加減を認めるのが絶対に嫌だからだ。
糞という言葉には、いらぬもの、汚いもの、もう役に立たないものと、とにかく嫌な意味がとことん入っていますから、男気を糞に落としたということは、本来勇猛果敢で明るく正しくさわやかに生きるはずの男というものを、嫌なことばかりする暗くて汚いものにしてしまったということです。それほど馬鹿なことをしてしまった。腐るなんていうものではない。人間社会を食ってだめにするばかりの、ほとんど嫌なことしかできない馬鹿なものにしてしまった。
そういうものに自分をしてしまった男は、それがあまりにもつらいものですから、なかなかそれを認めることができない。どうにかして、無理にでも、自分の方を正しくできないかと考えるのです。強引に理屈を曲げて、ものすごく馬鹿なことをしてでも、無理矢理自分をかっこいいものにしなければ、恥ずかしすぎる。
自分のやったことが、あまりにもひどいからだ。
一度糞になりきった男というものを、立て直すのは非常に難しいですね。はっきり言って、一旦男以外のものに成り下がった方がよい。無理に男をやろうとすれば、もはや痛いものになりきってしまう。男でも女でもない、痛いものになって、そこからやり直し、もう一度男になりなおした方がいいでしょう。
男ではないということをやりつくして、まだ自分は男だなどと言おうものなら、永遠に女性に去られてしまう。男も嫌な顔をして逃げます。誰にも相手にされません。それほど、男というものはきついものなのだ。糞に落としてはならない。
男を糞に落とすくらいなら、死んだ方がましだというくらいでなければなりません。
芋虫の 糞のごとくに 見ゆる身に 落ちて都の 糞をひろはむ 夢詩香
芋虫というものは、糞に形が似ているものだが、そういうものに自分を落として、都に落ちている糞を拾おう。
糞が重なりましたね。明日はきれいにいきましょう。