天草、天草灘に別れを告げて谷あいに入り、大江天主堂、さらにトンネルを潜ると道は羊角湾の方面に入ります。静かな入江に崎津の港がありました。
屈曲した入江の向うの港町の中に教会の尖塔が見えます。
小さな漁村の狭い路地を曲がると崎津天主堂がありました。
崎津に初めて教会が建てられたのは1569年、現在の教会は1934年再建だそうです。
数人の婦人たちが祭壇の横でキリスト生誕の飾り付けをしていました。
畳敷きの教会です。聞けば大江天主堂もつい最近まで畳敷きだったんだそうです。
「足が弱くなると畳敷きは辛くって」
ご婦人がいってました。
ここで鈴木神社のことを聞きましたが
「わしら宗旨が違うのでワカラン」
といわれました。
崎津の天主堂のこと、山崎朋子著「サンダカン八番娼館>」(筑摩書房)で印象深く知りました。
本の内容については辛い内容ですのでお話できません。
このことのついては昨年の「長崎の旅・・口之津・・天草の島々」のブログに載せました。
※本の中の巻末の文章の抜粋です。
・・・・・平べったい民家の屋根の上にひときわ高くそびえる暗灰色の尖塔と、その尖塔のいただきの白い十字架を映す鏡のようなに静かな海。そして、眼も綾なステンドグラスにかこまれた天主堂の内部には、祭壇の前に正座して石像のように身じろぎもしない老農婦―― (後略)
屈曲した入江の向うの港町の中に教会の尖塔が見えます。
小さな漁村の狭い路地を曲がると崎津天主堂がありました。
崎津に初めて教会が建てられたのは1569年、現在の教会は1934年再建だそうです。
数人の婦人たちが祭壇の横でキリスト生誕の飾り付けをしていました。
畳敷きの教会です。聞けば大江天主堂もつい最近まで畳敷きだったんだそうです。
「足が弱くなると畳敷きは辛くって」
ご婦人がいってました。
ここで鈴木神社のことを聞きましたが
「わしら宗旨が違うのでワカラン」
といわれました。
崎津の天主堂のこと、山崎朋子著「サンダカン八番娼館>」(筑摩書房)で印象深く知りました。
本の内容については辛い内容ですのでお話できません。
このことのついては昨年の「長崎の旅・・口之津・・天草の島々」のブログに載せました。
※本の中の巻末の文章の抜粋です。
・・・・・平べったい民家の屋根の上にひときわ高くそびえる暗灰色の尖塔と、その尖塔のいただきの白い十字架を映す鏡のようなに静かな海。そして、眼も綾なステンドグラスにかこまれた天主堂の内部には、祭壇の前に正座して石像のように身じろぎもしない老農婦―― (後略)
このように描けたらイイナ~とよく妻と話します。
妻も山旅に出かけますが、ある人が頂上に登ったとき、簡単にチョコチョコと仕上げ7~10分すると出来上がる。
特技です。
宗教的なことは、難しくってよく分かりませんが
徳川の時代に、この地域は皆、隠れて自分の信ずるものを
守り、祈り続けていたのですね。
都心部にある教会とは、一味も二味も違う
人々の心の拠り所だったのですね。
ヒキノさんの素敵な、スケッチ画像が物語っているようです。
(へな爺)
大江天主堂、埼津天主堂のスケッチ、品があって素敵です。優しい色合いもいいですね。
こういう静かなところはイラストのほうがいいです。
山で絵を描くという人、つまるところは山が好きなんです。
この島では鈴木重成に惹かれました。役人にしてはストイックな人です。ヒューマニストです。今の役人に鼻の糞を煎じて飲ませてあげたい。
奥三河足助の郷、則定の人といわれます。家康の出身地松平郷の近くですね。700石の直参旗本です。奥三河の人のマルさを感じます。
信仰の場所を描くときはかなり気を使います。いい加減に描いてはいけないという気持ちになります。
色付けまでその場でやってしまうのですか。
行く先々の様子を事細かく観察していらして、タダの観光旅行とは大違いですね。
これだけ実りある旅はいつもでも記憶に残るでしょうね。
これだったのですね。
「ここにきたらもう日本には帰れない」といってお墓はすべて日本とは反対の方向を向いていました。
この本は読んだことがありませんが、お墓には「熊本県天草」と大きく刻まれていました。
彼女達が住んでいたという家もみましたが、面影はなく薬屋になっていました。
悲しい話だったのですね。
なお、遺骨はすべて日本に持ち帰ったそうです。
(現地ガイドの話です。)
また、大江天主堂と埼津天主堂のスケッチ絵、さすがに上手に描かれていますね。これは何分ぐらいで描かれるのでしょうか?
小生も道具は揃えたもののまだ手付かずのままで・・・。
旅は三回美味しい。行く前に本など読んであれこれ思い浮かべるのがいちばん楽しいですね。