天草の旅、朝から天草下島を半周しました。今日は熊本泊まりです。冬の日暮れは早い。残念ながら天草とはサヨウナラです。
崎津の天主堂の静かな雰囲気を余韻にして天草をあとにします。
崎津の港から数分のところにコレジョ館という資料館がありました。コレジョは英語のカレッジのことかな。南蛮人の神学研修所か。パス。一町田というところから国道は山の中に入り本渡に出ます。途中で鈴木神社があるほうに車を迂回させたが発見できず、パス。本渡の天草切支丹館で南蛮絵師山田右衛門作の描いた「天草四郎陣中旗」を見たかったがこれもパス。山田右衛門作という人、天草の乱でただ一人(内通により)生き残った生き証人です。
本渡から瀬戸大橋を渡って天草上島へ途中、上津浦というところで曹洞宗の禅寺「南蛮寺正覚寺」に寄りました。わかりづらいところでしたが村人が親切に教えてくれました。見たところ普通の寺です。1590年ここに建てられた教会の跡地ということです。本堂裏手に切支丹墓碑がありますがそれがどういうことかわかりません。
鈴木重政が代官で赴任した時、兄の正三という曹洞宗の僧侶を同道します。正三は曹洞宗、浄土宗の寺を中心にして天草の再建に努めます。天草は寺が多いところです。
天草上島から五橋を渡って大矢野島、一番目の橋「天門橋」を渡ると三角です。
三角西港、明治20年オランダ人ムルドルの指導によって作られた近代的な港です。埠頭は石積みで730mあるそうです。
遠くはるか上のほうに天門橋が見えます。対岸は天草四郎の生地といわれる大矢野島です。大矢野島では天草四郎メモリアルというところがありましたがパス。
明治時代のホテル浦島屋、宇土郡役所、簡易裁判所、廻船問屋などが並んでます。小さなオランダ村、テーマパークみたいですが海浜公園、一休みの場所と思えばいいのです。埠頭にいる人は釣り人です。
食堂らしきものがあると思いましたがありません。飯はもう少し先だ。
天草の旅の前に読んだ本。
司馬遼太郎「街道をゆく 島原・天草の諸道」(朝日新聞社1987)
立松和平「奇跡 風聞・天草四郎」(東京書籍2005)
石牟礼道子「アニマの鳥」(筑摩書房1999)
これで天草の旅は終りです。宇土に出て3号線を熊本市に向かいます。
崎津の天主堂の静かな雰囲気を余韻にして天草をあとにします。
崎津の港から数分のところにコレジョ館という資料館がありました。コレジョは英語のカレッジのことかな。南蛮人の神学研修所か。パス。一町田というところから国道は山の中に入り本渡に出ます。途中で鈴木神社があるほうに車を迂回させたが発見できず、パス。本渡の天草切支丹館で南蛮絵師山田右衛門作の描いた「天草四郎陣中旗」を見たかったがこれもパス。山田右衛門作という人、天草の乱でただ一人(内通により)生き残った生き証人です。
本渡から瀬戸大橋を渡って天草上島へ途中、上津浦というところで曹洞宗の禅寺「南蛮寺正覚寺」に寄りました。わかりづらいところでしたが村人が親切に教えてくれました。見たところ普通の寺です。1590年ここに建てられた教会の跡地ということです。本堂裏手に切支丹墓碑がありますがそれがどういうことかわかりません。
鈴木重政が代官で赴任した時、兄の正三という曹洞宗の僧侶を同道します。正三は曹洞宗、浄土宗の寺を中心にして天草の再建に努めます。天草は寺が多いところです。
天草上島から五橋を渡って大矢野島、一番目の橋「天門橋」を渡ると三角です。
三角西港、明治20年オランダ人ムルドルの指導によって作られた近代的な港です。埠頭は石積みで730mあるそうです。
遠くはるか上のほうに天門橋が見えます。対岸は天草四郎の生地といわれる大矢野島です。大矢野島では天草四郎メモリアルというところがありましたがパス。
明治時代のホテル浦島屋、宇土郡役所、簡易裁判所、廻船問屋などが並んでます。小さなオランダ村、テーマパークみたいですが海浜公園、一休みの場所と思えばいいのです。埠頭にいる人は釣り人です。
食堂らしきものがあると思いましたがありません。飯はもう少し先だ。
天草の旅の前に読んだ本。
司馬遼太郎「街道をゆく 島原・天草の諸道」(朝日新聞社1987)
立松和平「奇跡 風聞・天草四郎」(東京書籍2005)
石牟礼道子「アニマの鳥」(筑摩書房1999)
これで天草の旅は終りです。宇土に出て3号線を熊本市に向かいます。
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