鹿児島の旅です。市内観光地図を見ますと鹿児島市内は銅像、記念碑の街のようです。それだけ偉人が出ているということでしょう。藩主島津公を祀る神社、島津公別邸跡の公園もあります。それらをパスして薩摩焼のふるさとに行く予定です。
城山公園をあとにします。それ前に平田靱負の屋敷跡(公園)を見て行くことにしました。
平田靱負(1704~1755年)・・・薩摩藩家老職。木曾三川の宝暦治水、徳川幕府からお手伝い普請を命じられた薩摩藩の総奉行。
工事は様々な曲折を経て薩摩藩士の割腹者61名、病死者32名、人柱1名、計94名の犠牲者を出して1年余で完成します。
住みなれし里も今さら名残にて、立ちぞわずらふ美濃の大牧・・・・・・
という辞世を残して靱負も工事完成後の宝暦5年(1755年)岐阜県養老町大巻で割腹。
城山の麓の住宅街に静かな木立と広場だけの公園。1000坪余ぐらいでしょうか。
公園の一画に銅像があります。碑文に美濃、伊勢、尾張300ヶ村の救世主と刻んであります。鹿児島市では自決した5月25日に薩摩義士頌徳慰霊祭を行ってるそうです。
この人の名前を知ったのはつい最近のことです。江戸時代に関東平野の治水を行った郡代伊奈氏一族、この人の名前は今も伊奈町という冠となって残っています。さらに百姓の造った顕彰碑があちこちに残っています。同じように岐阜県に平田町として名前が残ったサムライが平田靱負です。木曾三川のあちこちに銅像,顕彰碑が建てられているそうです。さらにこの人を祭神とする治水神社があります。
宝暦治水と薩摩藩の手伝い普請
宝暦3年(1753年)幕府代官が木曾三川を調査中、大洪水が起こり、幕府は薩摩藩に川普請を命じます。当時の御定法では幕府は各藩から運上金を徴収しませんが公共事業の負担を命ずることができたようです。関が原の戦い(1600年)の負け組みである薩摩藩ですが何しろ軍事大国ですから苛められませんでした。九代将軍徳川家重のころです。隙があったんでしょう。とてつもないお手伝い普請を命じられます。当初見積り14万両(内幕府負担1万両)、経済制裁ですね。薩摩征伐ともいいます。藩債を起こす、大阪商人から借金、藩内では大増税、藩士の俸禄引下げ、今の思い遣り予算とか、インド洋給油とかの問題ではありません。
平田以下947名の藩士が鍬入れ式を行ったのが1754.2.27、人夫1000人余、すべての工事が終了して検分が終わったのが1755.5.22、その2日後に平田靱負は割腹します。
総工費40万両、換算率はわかりませんが1両米1石とすれば200億円ぐらいになります。77万石、実高は半分くらいといわれる薩摩藩は財政難でとうぶんの間は立ち上がれなかったでしょう。明治維新の志士を輩出した原動力はナニクソトという気合だったでしょうか。
濃尾平野の百姓の救世主、神様になっちゃいますが、何とか幕府の無理難題に耐えてお取潰しの口実を与えなかった事は薩摩の救世主でもあるんです。
小さな公園を見ながらわたし的な勝手なことを考えました。今の役人さんに聞いてもらいたい話です。
こちらクリック⇒鹿児島市内観光案内平田公園を訪れた訪問記録カミタク(神山卓也さん)のホームページをリンクしました。
いよいよ薩摩焼きのふるさと苗代川に向かいます。
城山公園をあとにします。それ前に平田靱負の屋敷跡(公園)を見て行くことにしました。
平田靱負(1704~1755年)・・・薩摩藩家老職。木曾三川の宝暦治水、徳川幕府からお手伝い普請を命じられた薩摩藩の総奉行。
工事は様々な曲折を経て薩摩藩士の割腹者61名、病死者32名、人柱1名、計94名の犠牲者を出して1年余で完成します。
住みなれし里も今さら名残にて、立ちぞわずらふ美濃の大牧・・・・・・
という辞世を残して靱負も工事完成後の宝暦5年(1755年)岐阜県養老町大巻で割腹。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/63/64efc939b4d4e7a19ae93e8abaf83110.jpg)
公園の一画に銅像があります。碑文に美濃、伊勢、尾張300ヶ村の救世主と刻んであります。鹿児島市では自決した5月25日に薩摩義士頌徳慰霊祭を行ってるそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/1c/adab06388b14c3b445e8034f639bd4ff.jpg)
宝暦治水と薩摩藩の手伝い普請
宝暦3年(1753年)幕府代官が木曾三川を調査中、大洪水が起こり、幕府は薩摩藩に川普請を命じます。当時の御定法では幕府は各藩から運上金を徴収しませんが公共事業の負担を命ずることができたようです。関が原の戦い(1600年)の負け組みである薩摩藩ですが何しろ軍事大国ですから苛められませんでした。九代将軍徳川家重のころです。隙があったんでしょう。とてつもないお手伝い普請を命じられます。当初見積り14万両(内幕府負担1万両)、経済制裁ですね。薩摩征伐ともいいます。藩債を起こす、大阪商人から借金、藩内では大増税、藩士の俸禄引下げ、今の思い遣り予算とか、インド洋給油とかの問題ではありません。
平田以下947名の藩士が鍬入れ式を行ったのが1754.2.27、人夫1000人余、すべての工事が終了して検分が終わったのが1755.5.22、その2日後に平田靱負は割腹します。
総工費40万両、換算率はわかりませんが1両米1石とすれば200億円ぐらいになります。77万石、実高は半分くらいといわれる薩摩藩は財政難でとうぶんの間は立ち上がれなかったでしょう。明治維新の志士を輩出した原動力はナニクソトという気合だったでしょうか。
濃尾平野の百姓の救世主、神様になっちゃいますが、何とか幕府の無理難題に耐えてお取潰しの口実を与えなかった事は薩摩の救世主でもあるんです。
小さな公園を見ながらわたし的な勝手なことを考えました。今の役人さんに聞いてもらいたい話です。
こちらクリック⇒鹿児島市内観光案内平田公園を訪れた訪問記録カミタク(神山卓也さん)のホームページをリンクしました。
いよいよ薩摩焼きのふるさと苗代川に向かいます。
子供の頃、郷土史の時間に「木曾三川の宝暦治水」を習いました。
薩摩藩家老の平田靱負や、薩摩藩が工事を請け負った経緯や
長い期間、莫大な資金を投入して、難工事の末に完成後
割腹されたこと等、子供心に胸が痛む思いをしたのを覚えています。
現在の濃尾平野の繁栄は、平田靱負の宝暦治水のお陰と言っても
過言ではありませんね。美濃地方に住む者として感謝し、工事に
携った薩摩の、お侍さん達に手を合わせたい気持ちです。
(へな爺)
『水を治めるものは国を治める』の事を良く聞きました。
平田靱負の名前初めて知りました。
むかしは人海作船でしたから、土木技術とともに人を操縦する技を心得ていたのでしょう。
埼玉の『伊奈町』ですか。
職場の同僚に、伊奈と言う人がいました。
昔の流れを汲んでいるのか・・・・?
愛知と岐阜県の県境の 山奥で生まれ育ったから
木曽川 長良川 揖斐川は 名前を知ってるだけ
帰省するとき 橋を渡るのにー 申し訳ない・・・
近世のビッグプロジェクトですね。
伊奈一族、利根川を銚子に持ってたのは伊奈氏です。荒川を入間川にもって行きました。中川、江戸川の水は元の利根川、荒川なんです。それでも水はタップリですね。今の国交省より凄い仕事をしています。
昔も国交省の役人みたいな人がいて川を回収していたのですね。