この腕時計は、ガラスやメタルのベルトに随分と擦り傷がある。
刻んできた時間に相応する痛みであろう。
大した時計ではない。数千円のカシオ製である。
時間と日を表示するだけ、他には何の機能も付いていない。
狂うことなく本来の役目はきちんと果たしているから、
難癖をつけることはないのだが、
デザインはシンプル、と言うより野暮ったく、
時計店のショーウインドーをのぞき込んでも、
おそらく目は素通りしてしまうだろう。
ファッション性の欠片もないのでは、目も、心もひきつけない。
12年前に亡くなった長兄の形見で、義姉がそっと渡してくれた。
以降、ほぼこれを着けている。
13歳も離れているのだから、
一緒に遊ぶなんてことはもちろんなかったし、
何かをまじめに語り合った記憶もない。
兄弟だと言っても何だか遠い存在だった。
性格も兄はどちらかというと重苦しく、
対する僕は軽薄に近いという対照である。
それに、兄のファッションセンスは、
それを問うこと自体がナンセンスと言ってよい。
この時計はまさに、「兄にそっくり」なのである。
そして、この兄とは性格は違うと思っていたが、
実は似たところがいくつもあることに気付かされる。
たとえば、『ものを書く』『歌う』というのは、2人に共通する。
文学青年気取りの兄は、詩を詠み、
小説らしきものを書いたりした。
そうとあってか、僕が新聞社に入ったのを誰よりも喜んでくれたし、
僕の書いた記事を見つけ、
照れ臭くなるほど褒めてくれたのも、この兄だった。
歌も上手かった。
NHKののど自慢大会の常連で、
もう一歩で全国大会出場というところまで何度も行った。
伊藤久男の『イヨマンテの夜』から
カンツォーネの『オー・ソレ・ミオ』まで、
レパートリーも幅広く、声は伸びやかだった。
僕も70歳から歌のレッスンに通い始め、
もう10回以上ライブハウスのステージに立っている。
兄はまさに正統派の歌い方、
僕はと言えば音符も読めず、
ただメロディーを追いかけているだけで、
その上手さにおいて兄の足元にも及ばない。
目をやると、10時47分を指している。
「そろそろ寝る時間だろう」耳元で兄の声がしたような……
「あと5分待って」そうつぶやきながら、これを書き上げた。