Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

幸せ返し

2020年10月22日 06時00分00秒 | エッセイ
             出 勤 前


    「友人」と呼ぶのは、おこがましい。
    78歳の僕よりちょうど20歳年長、100歳を目の前にされた方だ。
    あるいは親子と言っても通るような年齢差であり、
    そんな人を「友人」とは恐れ多くて、とても呼べやしない。
    でも率直なところ、それほどの年齢差を感じない。
    気さくな人柄のせいなのか、不思議な人である。
    そして、厚かましくも僕の心の中では、
    間違いなく気楽に話せる「友人」、その思いなのだ。

れっきとした現役の画家。つい先日も作品展を開かれた。
作品を初めて拝見したが、主に手掛けられている銅版画の精密なこと。
不器用な僕なぞ、「どうすれば、こんなことができるのだ」とあきれるばかりで、
しかも、その作品の中には〝文明批判〟が込められているというから恐れ入る。

    絵画だけではない。
    ちょっとした短文も400字詰め原稿用紙に、それも万年筆で書かれる。
    なかなかの達筆であり、字体から風格もにじんでくる。
    今は、エッセイ風に初恋物語を執筆中だ。
    まだ最初の編だけなのだが、これがまた面白い。
    当然、続編を催促しており、近々ご披露いただくことになっている。
    80年ほど前の初恋をうれしそうに書かれる、
    その年齢を感じさせぬ瑞々しさ。
    
身体の方も杖をつかれる程度で、特に心配なところはない。
むしろ、こちらの不調を気遣ってもらうなど、恐縮することしばしばだ。

    そして、こんなことをおっしゃる。
「皆さんたちと、こうやってコーヒーを飲みながら過ごせるなんて
夢のようです。幸せです。楽しくてしようがありません」
    
    そう言われると、またまた恐縮する。
「いやいや、20歳も年長の大先輩とこんなに和やかに語り合えるとは、
こちらこそありがたいことです。幸せをお返しします」

         肩肘張らず、人生を学んでいる。

まだガラケーです

2020年10月20日 06時00分00秒 | 日記
               夕暮れ時のうろこ雲


        さて、歩きに行くか。
        手にペッボトルのお茶、ポケットに携帯電話とキー、
        それに小銭少々。

電話は今もガラケーだ。今年の春、スマホに替えようと思い立ったことはある。
携帯電話会社を何軒も、スマホに替えるとしたらどこがいちばん良いか聞き回った。
だが、最後の最後、現在契約中の会社から
「契約がもう1年残っていますよ」と知らされた。
契約切れとなるから、それを機にスマホに替えようと思っていたのに、
今スマホに替えると、解約金等が派生するというのだから、
ちょっと話が違ってきた。
それで「もう1年待つか」となっているのだ。

    実際のところ、ガラケーでもちっとも不自由さを感じない。
    使う機能といえば電話にショートメールくらい。
    加えて、重宝しているのが歩数計だ。
    ほぼ毎日ウオーキングに励んでいるが、ガラケーの歩数計が
    「時間、歩数、距離」をちゃんと教えてくれる。
    そこそこのデータも残してくれるから、
    体調等も考えながら調整もできるのだ。

この川沿いのウオーキングコースは、
四季折々、朝に夕べにさまざまな表情を見せる。
それを収めるのも、このガラケーの役目になっている。
歩きながら、ちょっと目に留まった光景をパチリパチリと撮っていく。
ただ、所詮はガラケー。望遠機能もズーム機能も何もない。
PCに取り込んでトリミング等やってみるが、遠くに写ったものを拡大すると
たちまちピンボケ状態になってしまう。
それがガラケーの身の丈というものだろう。
それでも、このブログの写真は多くがガラケーで撮影したものだ。
         
           車のリアウインドウに映る夕日と人影  

    おっ、JAL機が都市高速道路すれすれに(そう見える)
    福岡空港に着陸しようとしている。
    うまく撮れたら、お慰みだ。


山野草

2020年10月13日 06時00分00秒 | エッセイ
    いささか恥ずかしいことながら、草花の名前をあまり知らない。
    バラ、チューリップ、コスモス……これらはまだしも、
    ちょっと見慣れないものになると、もう分からなくなってしまう。
    山野草ともなると、まったくと言ってよい。
             
               秋の阿蘇(ネットから借用)
父は職場の登山同好会といったものの長を務めるほど山好きだった。
小学生の頃、山にキャンプに何度か連れられて行った記憶がある。
「何から何まで父にそっくり」姉は僕のことをそう言う。
とは言え一つだけ、この山好きの血は受け継がなかったらしい。
山や野の記憶といえば中学校の遠足くらいなもので、
とんと縁がなかったように思う。
山か、海かと言われれば、圧倒的に海派だった。

    今も妻の写真撮影に同行して、自然に触れる機会はあるにはある。
    だが、それも車が行ける範囲内でのことだ。
    そこから先、山に登ったり、野を歩き回るということはまったくない。
    それほど山や野に疎遠とあれば、
    四季折々、山野に咲く草花たちを見ることもなく、
    したがって名前を覚えようもないことになる。

友人に山好きな女性がいる。
毎週のようにあちこちの山野を夫婦連れだって歩いている。
時には沢登りにも挑戦しているから、
「あんなきつそうな登山などご免こうむる」と思っている僕には、
年齢からすると(失礼)とんでもない女性だと思えてくる。
「よくもまあ、元気なこと。毎週行くほど本当に山が好きなんだね」
冷やかし半分にそう言うと、
「一週間分の心身の穢れを洗い流すためです」などとさらりと答える。
もちろんニッコリしながら……。
            
                        ムラオノスズカケ
    彼女のブログには毎回、山野草の写真が満載だ。
    最近のには「ムラノオスズカケ」「ムカゴホトトギス」
    「シンミズヒキ」「ミゾソバ」などが登場していた。
    もちろん初めて見、聞く花々だ。
    なんとも面倒くさい名前の花々。こんなの覚えられるわけがない。

ごめんな。山に、野に咲く花たちよ。
「無粋な奴」と笑ってくれても構わない。
友が精いっぱい君たちを愛でてくれている。「それで良し」としてくれないか。

    そんなことを思いながら、夕暮れの川沿いを歩いている。

お し ま い DEATH!

2020年10月09日 06時00分00秒 | エッセイ
目覚めて、いつものように洗面所の鏡をのぞき込むと、ない。
なくなっている。あるべき所に、あるべきものがないのだ。
顎髭が消えてなくなっている。のっぺりした顔が見つめ返すのみ。
どこかしまらない顔つきが再登場し、
「やはり、そり落とさなければよかった」と悔やんでも、もう遅い。
8年前、つまり70歳時の写真を改めて見ると、まだ顎髭は見えない。
はっきりとは覚えていないが、確かその年の年末年始の休みの間中、
不精髭をそのままにしておいた。
決して、髭が濃い方ではないが、それでもまずまず伸びている。
                         
初出勤の日の朝、「さて、この不精髭をどうしようか」
という思いが、ふっと湧いた。
さっさと、そり落としてしまえば何ということもなかったのだろうが、
「さて」と一呼吸置いたところに、なにがしかの思いが浮かんだのであろう。
さして特徴もなく、どちらかと言えば締まりのない顔つきだ。
姉に言わせると、「父とそっくりの顔つき」なのだという。
うれしく思うか、あるいは迷惑至極と感じるかは、
ここでは言い及ばないが、
その父が、鼻髭を生やしていた。
それで、銀行の支店長としての威厳らしきものを示したのかもしれない。
髭にはそんな役割もあるだろう。
それで、「よし、この不精髭をうまく使ってみるか」と思い立ったのである。

まず、不精髭を小さな鋏を使って父と同じように鼻髭として整えてみた。
こりゃ、ダメだ。まったく似合わない。
自身を思い切り笑ってやった。さっさとそり落とす。
では顎か。ここならお洒落ポイントになるかもしれない。
剃刀で全体を整え、鋏で植木を剪定するように整えていった。
まずまずか、と自らを納得させ、それから8年間ほども、
そこにそれがあるのが当たり前として過ごしてきたのだ。
だが、このところ顎髭が洒落でも何でもなくなってきたように思えて仕方がない。
むしろ、年老いてきたことを強調するかのような存在となり、少々うっとうしい。
おまけにコロナによってマスクを着けることが多いから、
それに隠れてしまうのでは、その存在感を示すこともできない。
           
   いつの間にか、剃刀が手にあった。「お し ま い DEATH!」

宿題

2020年10月01日 15時28分26秒 | エッセイ

    さだまさしの「無縁坂」を、いつものようにYou Tubeで聞いている。
    グレープ時代6枚目のシングルとして1975年11月に出しているから、
    もう45年も前の歌だ。
    もちろん作詞・作曲ともさだまさしで、
    デビュー曲とも言える「精霊流し」に続くヒット曲となった。
    母の人生を坂道にたとえ、その年老いた母に対する
    息子の想いを綴ったものだ。

この歌を初めて聞いた時、「はて、『無縁坂』というのはどこにあったか」と、
頭の中で長崎市の地図を隅々まで引っ掻き回した。
言うまでもなく、さだまさしは同じ長崎市の出身。
さらには、長崎にはこちらの方がはるかに長く住んでいた。分からないはずはない。
だが、どうしても見つからない。
諦めて、そのままずっと放っておいた。

    それから随分経って、誰と話していたのか思い出せないが、
    その人が「あの坂は、東京にあるんだよ」
    本当にぽろっと教えてくれたのだ。
    ネットの時代。検索してみると「東京都文京区湯島4丁目」にある坂だった。
    何だかがっかりした。
    故郷恋しの思い……「長崎の坂」であってほしかった。
            
3月に予定されていたミュージックスクールのライブで、
これを歌おうと練習を積んでいた。
だが、コロナウイルス禍。ライブが中止されたのはもちろん、
以降、スクール通いも止めてしまっている。
思い切り声を出すこともなかったから、もう出ないだろう。
実際、You Tubeに合わせて歌ってみても声はかすれるだけ。

    スクールに通い始めたのは70歳の時。もう8年にもなるのか。
    ここで、止めてしまうか。いやいや、もう一度ステージで歌ってみたい。
    「無縁坂」と、もう1曲、同じさだまさしの「僕にまかせてください」、
    この2曲を期限のない宿題として抱え続けていくことにしよう。