Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

時は巡りて

2022年06月10日 06時00分00秒 | エッセイ


時計の針が、
12から11、10、9、8……と逆回りしていく。
チクタク、チクタク回り続け1980年まで時をさかのぼってしまった。
その年のある日、月日までは覚えていないが、
地方の新聞社を辞め、社員が20人足らず、
月刊の経済誌を発行する小さな出版社で新たなスタートを切った。
時計が逆回りしていくのに合わせ、
42年間のいろんな物事が早送りの映像のように次々と現れてくる。

世間の風にいまにも吹き飛ばされそうな小さな会社。
毎日、毎日をどうしのいでいくか懸命だった。
多少の縁あって誘われてのことであったが、「なぜ、こんな会社に……」
ふいと後悔の念がよぎることもしばしばだった。
だが、「苦労は買ってでもせよ」と言うではないか。
吹き飛ばされまいと、脚をぐいと踏ん張り続けたことで、
足腰が鍛えられた。
少々の難題に直面してもひるむこともなくなっていった。
この苦労は自身を鍛錬していくうえで、
得難い体験でもあったのだと思う。
伴って徐々に経営も安定してきたのである。


目の前の机の上に数千枚もの名刺をはさんだホルダーがある。
この出版社に転じて以降のものだから、
記者として40年余の間、どのような方たちと知己を得てきたか、
仕事上の遍歴を示すものである。
この方たちにはさまざまに教えられ、そして学んできた。
これまた自身の鍛錬の糧であった。
今なお懇意にしていただいている方も多くいるし、
残念ながらすでに故人となられた方もいらっしゃる。
名刺を一枚一枚めくっていくと、思い出は尽きず現れてくるのである。

      

名刺ホルダーの横には、20年間分ほどのスケジュール帳もある。
仕事上の遍歴をより強く示すものである。
何年の何月何日、どなたとお会いしたのか。
それを見れば、どんな話をしたのかまで覚えていることもある。
それは記者として決して忘れられないニュースを見つけ出し、
特ダネとしたからに違いなかった。
思わずニヤリとさせるスケジュール帳である。

      

思いは尽きぬ、これら名刺、スケジュール帳を処分する。
80歳になるのを機に、42年の遍歴にピリオドを打ち、
時計の針を1、2、3、4……と進めることにした。
過去に生きるのではなく、
今を懸命に生きなければならない年齢なのである。



デジタルデトックス 

2022年06月04日 12時46分40秒 | エッセイ


「まだか、まだか」そうせっつくのはやめておこうと思う。
いまだガラケーの友人がスマホに変えた途端、
どっぷりはまり込んだら大変だ。

     

脳の情報処理は①入力②整理③出力─の順に行われる。
情報がほど良く入力されれば問題ないのだが、
大量の情報が絶え間なく流入すると、
脳内で整理されず、まるで「ごみ屋敷」みたいに溜まり、
「脳過労」の状態に陥ってしまう。そうすると、
物忘れや無気力などを引き起こす危険性があるという。
PCやスマホといったデジタル機器には、情報が溢れている。
それを休みなく使い続けると、先ほど話したように
脳が「ごみ屋敷」状態になりかねないのだ。

「デジタルデトックス」という言葉を最近知った。
デトックスとは「解毒」と言う意味で、
「デジタルデトックス」というのは、
要するデジタル機器の使い過ぎによって
「ごみ屋敷」状態になった脳をきれいにする、
あるいはそうならないよう注意を喚起するものだ。

     

日本デジタルデトックス協会なるものもあり、
そこがこんなことを注意している。
①寝室に機器を持ち込まない
②通話やSNSの通知をオフにする
③不要なアプリを消す
④目の刺激を減らすためモノクロ画面に設定する
⑤機器を使わない時は布をかぶせたり箱にしまったりして
 目につかないようにする

さて、これらをどれほど守れるだろうか。
ガラケーからスマホに変えて1年以上になるが、
確かにスマホを取り出す回数が多くなっている。
これ以上、脳が「ごみ屋敷」状態になってしまっては困る。
と思いつつ、またスマホを手にしてしまう。
困った奴だ。



悲しみと怨嗟の「KAZU Ⅰ」

2022年06月02日 12時51分11秒 | エッセイ


この悲しみ、怒りと恨みをどうすれば鎮めることができるだろうか。
知床半島沖の海底から引き揚げられ、
網走港に陸揚げされた観光船「KAZUⅠ」。
船体のあちこちが傷ついた、その姿が乗客の家族に公開された。
如何ばかりであろうか。家族の気持ちは容易に察せられる。

        
                                                       

乗客・乗員26人。そのうち14人の死亡が確認されている。
残る12人の方々は、1カ月以上経った今なお不明のままだ。
既に亡くなったことが分かった人たちの家族は、
悲しみと向き合いながら、生活の再構築を進めることもできるだろう。
だが、行方不明のままの人たちの家族は、その人が生きているのか、
亡くなっているのか分からない曖昧な状態に置かれ、
なかなか前に進めないのではなかろうか。

          

僕ら第三者が、その家族を元気づけようと思い、
「生きていると信じよう」とか
「もう亡くなったと思って前に進もう」などと言うのはたやすい。
でも、善意からの言葉であっても、
それら家族の人たちの心を、あるいは傷つけてしまうかもしれない。
大切な人を失くした人たちの悲しみを理解し、
第三者は静かに見守っているしかないのではないか。
何も言葉をかけないのは、決して非情ではない。

車体に「心運」と書いたトラックが信号待ちしている。
仏教の言葉に「運心」(あることに心を凝らす)
というのがあるが、「心運」というのは辞書を探してもなく、
造語ではないかと思う。
運送会社のトラックだから、おおよそどんな意味合いかは想像できる。
やはり。その運送会社のホームページを見れば、こうあった。
「お客様の商品を心をこめて運ぶとともに、
お客様の心を運びます」

海底深くから引き揚げられた「KAZUⅠ」は、
切なくも、悲しみと怒りと恨みを運んできた。