二つの映画とも、「異聞浪人記」を原作に、製作されたものである。多少、ストーリーは、違っているが、「切腹」は、1962年(昭和37年)に、主演、仲代達矢、三國連太郎、石浜朗、岩下志摩、丹波哲郎、仲谷一郎、三島雅夫、松村達雄、稲葉義男、佐藤慶、青木義郎、小林昭二、(この辺までは、顔と名前が、一致する。)他で、モノクロで、製作されている。いずれの俳優も、皆、若かったし、迫真の演技である。今回の「一命」は、主演、市川海老蔵、役所広司、瑛太、満島ひかり、竹中直人、他で、50年前に、対応している。長くなるので、ストリーは、略するが、主人公の藝州広島、改易された福島正則の元家臣の浪人が訴える処の「武士の面目とは、何か」、「今日は人の身でも、明日は、我が身である」、成程、改易によって、浪人の身になり、娘が、労咳という不治の病を患い、娘婿も、有能であるにも関わらず、仕官の道が閉ざされ、一人息子が、高熱で、病気になっても、医者に診てもらえる金が工面できず、困窮の果てに、狂言切腹を思い立たざるを得なかった動機、その娘婿の無念を晴らす為に、行なわざるを得なかった所行。今日的に観れば、会社が、倒産して、再就職もままならず、妻は、不治の病を煩い、子供を医者に診せる金にも困る、、、、、、。福島原発事故や、東日本大震災ではないが、いつ何時、「今日は人の身でも、明日は、我が身である」となるか、分からないご時世である。今回の比較の中で、若い役者としては、「満島ひかり」は、NHK朝ドラの「ひまわり」の奔放な役回りに較べて、なかなか、難しい役処を、こなしていたように、感じられた。とりわけ、演出にもよるのであろうが、夫が、遺骸として届けられたときに、手の血糊を丁寧に、剥がした後、握られていた和菓子(井伊家で、出された菓子)を、死んだ赤ん坊に、食べさせ、自分も食べた後に、切腹を強いられた折れた夫の脇差しの竹光で、自害して果てるが、赤ん坊を真ん中に、川の字に、並んで、果てたシーンは、いつの時代でも「不条理」とは、あるのだなと思わざるを得ない。後の世の赤穂の浪人による討ち入りによる公義への問いかけ、赤松による心中もの・人情もの人形浄瑠璃、或いは、わび・さびの神髄や、俳句の世界すらも、「ある種の時代の不条理」を、その地下水脈で共通しているものかも知れない。武士の魂と言われている髷を、奪われた介錯人、検分役も、結局、我が身として、今度は、切腹を強いられる羽目になった。井伊の赤備えの武者兜は、「武士の面目」の象徴として、暗示されているが、それとともに、割腹後、火縄銃で、討ち取られた前作の最期と、今回の切られて後、最期を迎える場面の描き方の違いは、何か、半世紀の「時代の違い」を、感じさせられる。靖国神社の大村益次郎像の前で、靖国神社国家護持法案に、抗議して、「戦車の靖国神社、入場を阻止するぞ!」という遺書を残して、くり小刀で、割腹自刃した友人の死から、後数年で、もう人生、2回も、余計に、生き延びてしまった。TSUTAYAのレンタルで、やっと、前作を検索して見つけて貰ったが、前作の俳優陣達の演技の迫真さには、改めて、納得させられる。確かに、その後の活躍の端緒が、垣間見られるような気がした。是非、前作も、比較で、見られることを、お勧めしたい。