小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

チリ・チロエ島の30年前の想い出:

2013年03月11日 | 社会戯評
チリ・チロエ島の30年前の想い出:
随分前のことになってしまったが、ロス・アンゼルスから、ラン・チリ航空で、首都のサンチャゴへ、そして、更に、そこから、南へ、1000キロばかり、下ると、小さなローカル空港が、ポツンと、あったものである。州都のプエルトモントである。今でも、覚えているのは、港の岸壁が、干満の差が、著しく、下も見下ろすと、3m以上は、あろうかと思われる水面の高さであったのを想い出す。当時は、まだ、目立った産業がなくて、道を車で走っていても、大きな建物と云えば、せいぜいが、水産加工場の建物程度であった。そんな中でも、200海里規制の実施される前の遠洋漁業の母船方式での実績により、大手水産漁業会社が、それでも、現地の水産加工工場を利用しながら、何とか、鮭の養殖の調査とか、たまたま、私は、海藻の天敵になるウニの採集と塩ウニの加工を行う日本人の工場を、出張で、見に行っていったものである。考えてみれば、当時は、カリフォルニアのジャバ半島とか、ボストンとか、チリとか、様々な地域で、日本人が、技術指導しながら、ウニの加工と輸出を現地指導していたものである。今は、どうなってしまったのであろうか?随分、日本人は、色々な国で、世界の果てまで行っては、食品の開発輸入を手掛けてきたし、今も尚、この流れは、変わっていないであろう。新聞の記事をたまたま見ていたら、プエルトポントの文字を見つけ、更に、チロエ島の懐かしい名前が出てきた。今や、高級住宅も、大規模な養殖チリ銀鮭加工場や養殖場が、開発され、一大輸出産業と雇用の確保が、この小さな街にも、島にも、なされたようである。2011年の実績で、日本向けが45%で、17万トンもの養殖チリ銀が、輸出されているそうである。もっと、南に下れば、もうその先は、南極が目の前である。海藻の天敵であったウニを食べる日本人、そして、フィヨルド湾の地形を巧みに利用して、外来魚の銀鮭養殖に成功して、しかも、寄生虫の危険性のある生食用の鮨ネタまでをも、開発して、流通させてしまった日本の水産加工業の技術指導・開発力は、改めて、すごいノウハウと実績があるのであると驚かされる。今や、世界で、鮨ネタは流通し、脂ののったトラウト・サーモンは、人気の一品である。もう、二度と、行くことは無いであろうが、新聞記事を読んでいて、懐かしく想い出された。と同時に、その光の裏に潜む陰としての餌の海底沈殿に伴う環境汚染問題や養殖魚の病気蔓延のリスクという矛盾も併存していることは、間違いないし、実際、そういう現象が、押し迫ってきているのも、残念乍ら、現実であろう。僻地の産業振興による地域経済の雇用の確保と貧困からの脱出と、環境汚染の可能性という問題は、何とも、両立させることが悩ましい問題であろう。何か、よい技術開発が、なされないのであろうか? 遠く離れた国の出来事のようであるが、懐かしさと同時に、複雑な思いを抱かせられる。そう言えば、被災した東北でも、リアス式海岸を利用した銀ザケの養殖は、盛んであったが、、、、、、、。