小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

ハザード・マップを考える

2011年10月16日 | 社会戯評
何でも、長いこと住んでいれば、昔は、この土地は、ああだったとか、こうだったとか、伝承がされるが、著しい宅地造成や、山をも崩すような機械の前では、そんなことは、どこかに、一緒に、埋められてしまいそうである。何年か前に、都心で、これまで経験したことのないような亜熱帯性ゲリラ豪雨が、自宅近くであり、隣の家の地下ガレージが、急な坂の下の下水道のマンホールが、一挙に、溢れてしまい、その為、水没してしまったことがあったが、その時も、我が家では、代々、この付近は、地下室を作らない方がよいと言い伝えられていたのを想い出した。この間、浅間山のハザード・マップを見ていたら、夏場の噴火による火砕流とは別に、何と、冬季の冠雪時の噴火を想定した、泥流によるハザード・マップであった。成程、豪雨、泥流、地震、津波、深層崩壊、火災、交通事故、原発、放射能、等、数え上げれば、数限りないハザード・リスクが、あげられるものである。いやはや、大変な時代になったものである。子供の頃は、避難訓練などは、授業がサボれる(?)程度にしか、考えていなかったが、今や、それどころではない。そんな悠長なことを言っていたら、罰が当たりそうな勢いである。「運を天に任せる」等と、口が裂けても、言えません。我が老犬には、「その時は、頼むよ」と、いつも、お願いしているが、、、、。動物的な本能に、依存していたら、駄目でしょうか?もっとも、3.11 の時も、女房殿曰くでは、泰然自若としていたらしいので、やはり、駄目でしょうかねェー。


鮭児を食する=新たな楽しみができた。

2011年10月15日 | 男の手料理・食
お彼岸の墓参りは、高速道路が混雑するので、少し、過ぎてから、その帰り途中にでも、弟の家へ寄りがてら、来年、1月初めに、初産予定の姪の様子を見に、その旦那さんが、勤める高級寿司屋に、寄ることにした。東静岡にあるその高級寿司屋は、周りに、大きなお寺が、散在し、法事の仕出し料理や、懐石料理で、結構、繁盛している様子だった。その日は、お任せのコースで、握って貰ったが、たまたま、「鮭児(けいじ)」を出してくれた。知識としては、鮭児とは、世界自然遺産の知床周辺などで漁獲される未成熟のシロザケの中から、魚体や頭のかたちなどを見て選び抜かれた超高級シロザケで、1万尾に1 - 2尾とも言われる貴重品で、脂肪の比率が通常の鮭よりも極めて高く、刺身で食べると舌の上でとろけるような絶品の味わいであるということは、知っていたが、いざ、目の前に、置かれた小さな一握りの寿司は、一口で、丸ごと、口に入れるのは、実に、もったいない気がした。普段、回転寿司のやたら、脂ぎったチリ銀の養殖トラウト・サーモンしか、食していない素人には、何とも、贅沢な味わいであった。勿論、水産会社の漁獲証明書(産地…漁獲番号など)が、写真入りで、提示されたが、、、、、。帰ってから、ネットで、その値段を調べると、1尾、7万円とか、ルイベ、3万円とかの値がつけられているのには、さすがに、驚かされた。1貫当たりでは、幾らなのだろうか?他にも、生の白魚の軍艦巻きとか、それぞれ、各産地の名称を、必ず、握りと同時に、教えられたがが、地産地消ではないが、近場の材料を、鮮度良く、供されるのは、実に、にわか美食家にとっては、たまらない一時であった。早く、自前のお店を、暖簾分けでも良いから、もって貰いたいものである。それは、こちらの我が儘勝手な要望であるが、、、、、、。年に、1-2度、墓参りのついでに、浜名湖の鰻の蒲焼きを戴くのとは、別に、親戚の顔を見つつ、一緒に、こうした食事の機会を持つのも、私には、新しい楽しみができた。


吉村 昭著「三陸海岸大津波」を読む=記録する強い意思と伝承することの難しさ

2011年10月14日 | 書評・絵本
緻密な足によるフィールド・ワークと事実を徹底して記録する強い意志は、今から、30年も前に、書かれた本でありながら、その輝きを決して、今日でも失っていなし、むしろ、今日だからこそ、価値が高まっているのではないだろうか?5年前に、物故した著者が、今でも生きていたら、今回の「三陸海岸大津波」を、どのように、評したであろうか?或いは、又、どんな著作を著したであろうか?全く、皮肉なものである。明治29年(1896年)と謂えば、私の父方の祖母が、明治25年生まれだから、未だ、祖母が、4歳ころの大津波襲来の話である。日清戦争講和の翌年である。そして、安政3年の津波、昭和8年(1933年)の再度の大津波、昭和35年(1960年)のチリ地震大津波を、比較検討している。前兆という物は,どうやら、必ずしも、一定の共通パターンがあるものではないことが、改めて、認識される。急に、大豊漁に沸いたり、海岸が、沖合1キロ先にも及んで、干え上がったり、井戸水の水位が、急激に下がったり、海上で、狐火のような青白い発光体が突然、生じたり、大砲のような大きな轟音が響き渡ったりと、或いは、チリ地震大津波のように、「のっこ、のっこ」、と「よだ」は、やってきたという。今回も、又、壊滅的な損害を被った「田老」地区には、「津波太郎」という名前がつけられた程、その防災意識は優れ、高台移転や、防災訓練、鉄壁と想われる程の巨大な防潮堤を構築したが、やがて、慢心と、過信とにより、又しても、今時の災害に至ってしまったのは周知の事実である。「災害時の行動心理分析」を聴くにつけ、「弱者を助けたい」という人間の心情や、「自分にとっては、絶対に、あり得ない最悪の事態であるとは信じたくない」、そういう心理が、今回の被害を大きくした一因であることは、否めないであろう。更に、詳細な「災害時の行動心理学的な分析」が待たれるし、一般に、広く、公開、周知、教育・訓練されねばならない。被害者の伝承や、作文に、書かれていることは、全く、今回でも、同じことが、起こっており、何故、きっちりと、伝承され、意識付けだけでは無くて、実際の避難行動に、継承されて行かないのであろうか?勿論、キチンと継承してきた一部の人々は、幸運にも、難を免れたようであるが、、、、、、。その意味で、記録しようとするその強い意志は、連絡手段の乏しかった明治時代ですら、必死に、書物に、記録に、人々は、残していたことを忘れてはならない。そして、それを記録しようとする著者の30年前の強い意志にも、感銘を受ける。それにしても、人間とは、30年や、40年そこらで、貴重な体験すら、安易に、忘却の彼方へと、誘われてしまう存在なのか?事故も、災害も、そして、戦争も然りである。


熟柿を樹ごと喰らうに想う=その不思議な感慨

2011年10月13日 | 自然・植物・昆虫
女房殿の実家は、朝霞でも江戸時代から、何世代も続く、百姓である。その古びた仏壇の過去帳には、宝暦(18世紀の半ば頃)という元号も、見られる程である。屋号は、その昔、荒川を遡ってきた京の都からの船が、自宅にあった大きな松の木の根元に、係留されたことから、「松の木」と名付けられ、代々、生産する野菜の箱には、今でも、刻印されているそうである。私が、結婚した頃は、大和芋を生産していたが、かなり、重くて、重労働であるために、その後、ほうれん草や人参に、栽培を変更して、今日でも、義理の父が亡くなった後も、女房殿の弟夫婦と義理の母が、その後は、甥が、営農を継承し、専業農家として、今日に、至っている。ここの敷地にあった大きな旧い紅葉の樹は、種を、小諸へもって行き、播いたところ、山紅葉本来の土地柄にあったのか、何本も大きな樹に、今や、成長していて、秋には、それは素晴らしい真っ赤な紅葉を楽しませてくれる。他方、庭の一角に、3-4本程、高さ2メートル程度の柿の樹が植えられていて、真っ赤に、柿が熟している。既に、野鳥に、ついばまれたり、完熟しすぎて、落柿してしまったものやら、様々であるが、熟柿を、樹ごともいで、そのまま、喰らうと、何とも絵も言えぬような甘い汁が、種とともに、その口に充満する。荻窪の家にも、私が結婚した当時、祖母が、種から育てた柿の樹があり、それを秋に、収穫して、ビニール袋へ入れ、アルコールを噴霧し、渋抜きをして、熟柿をよく、スプーンで、丸ごと食したものである。ベトナムでも、柿が、石灰にまぶされて、店頭に並んでいたのを見たことがある。渋柿だったのである。その子孫は、種から、小諸に植えたが、どうも、根が張らずに、未だに、成長が遅い。桃栗3年、柿8年といわれているが、どうしても、実がなるところまでは至らない。子供の頃、友達の家で、大きなビワの木に登り、たらふく、贅沢に、ビワを食べては、その大きな種を、ベッペ、ペッペと吐きだしたが、柿を喰らいながら、そんなことも想い出した。柿の枝は、確か、折れやすいので、注意しろと、よく言われた記憶が、今でも、残っている。ほおばりながら、遠い昔の不思議な感慨に包まれた。



「霧氷」を、初めて観る=今年も観られるだろうか?

2011年10月12日 | インポート
それは、去年の晩秋、11月初め頃に、突然、やってきた。生まれて初めて、偶然にも、「霧氷」を目撃したのである。朝早くに、東京を発ち、八ヶ岳周辺の山の遅い紅葉を愉しみながら、松原湖・蓼科高原経由で、赤岳のトラピス・ロープ・ウェイを登っている途中に、何やら、雪のような、しかし、雪そのものではない情景、「紅葉と雪景色」とが、同時に、混在するような何とも絵も謂われぬ幻想的な情景に、出くわした。それが、「霧氷」だったのである。その昔、子供の頃、橋幸夫が、「霧氷」という唄を歌っていたので、言葉だけは、知識としては、知ってはいたが、実際の「霧氷」を「体感」するのは、初めてであった。スキー場で観る雪の造形美である「樹氷」ともやや違い、何とも、実に、「はかない、危うい」情景であった。色々な気象条件が、偶然にも、重ならないと、観られない情景のようで、実に、幸運であった。今年も何かの拍子に、出くわさないであろうか?何とも、楽しみなことである。



ハナミズキが、赤い実をつけ始めた=秋の一日

2011年10月11日 | 自然・植物・昆虫
金木犀の甘い、かすかな香りがしてきたと思っていたら、夜来の急な雨で、黄金色した花弁は、すっかり、皆落ちて、辺り一面に、再び、元の味気ない景色に、戻ってしまい、その存在も、一年後まで、待たないと気がつかないことになるであろう。そんな時に、今度は、ハナミズキの葉が、色づき始めたかと思うと、春に咲いた小さな白い花弁に、今や、大きな赤い実が、なっているのに気付かされる。いよいよ、紅葉の季節の始まりだろうか?毎年、「紅葉」、「落ち葉」、「落ち葉掃き」、と、目まぐるしく、10月中旬頃から、11月―12月に向かって、次々と、やらなければならない仕事が、出てくる。未だ、隣に植わっている栃の樹は、黄色には、紅葉しておらず、12月初めにならないと、枝打ちの作業ができない。野鳥たちは、そろそろ、ハナミズキの赤い実を餌に、やってきそうな気配である。キーッという甲高い声のヒヨドリが、先頭を切って、そして、春先に、巣立ったシジュウカラの雛たちも、成鳥して、きっと、又、舞い戻ってくることであろう。山では、稲刈りや、蕎麦の実の収穫も、一段落して、晩秋から、冬への準備に、今年も又、移ろい行くことになるであろう。澄んだ空気と少し冷やっとした感じの空気が、心地良い日である。


旧式のアナログ・一眼レフ・カメラを引っ張り出してみる

2011年10月10日 | 社会戯評
確か、今から、もう30年程も前、駐在に出るのに際して、一眼レフ・カメラが、必要になるということで、当時、5万円位で、ミノルタX-70という当時の最先端の機種を購入したが、帰国後、タンスの肥やしと化していた。先月、上田の真田祭りを見に行ったときに、隣の人が、大きな望遠レンズのデジカメ一眼レフを使用して、撮影していたので、確か、そういえば、自分も一眼レフ・カメラを使っていたことを想い出した。何せ、カメラの想いでは、余り、よい思い出がない。それも、学生時代、友人達と伊豆へ、旅行に行ったときに、父の旧いカメラを借りて、勇んで、撮影したつもりが、どういう訳か、フィルムが、うまく装着されていなかったので、せっかくの想いでのポーズも、写っておらず、それ時以来、トラウマと化して、以来、デジカメ派である。フィルムス・キャナーも、高額だったのに、その後のUSB接続の技術革新の普及で、当時のSCASIケーブル接続は、その後のPCに、接続できずに、今でも、眠ったままである。(廃棄するにしても、もったいなくて、出来ません。女房殿は、うるさく、訳に立たない無用の長物は、早く処分すべしと、圧力をかけてくるが、「無用の要」にも、利があるとか、何とか、訳の分からぬことを言いながら、今日に、至っている。)成程、一眼レフ・カメラというのは、さすがに、腐っても(?)大した代物である。試し撮りの我が老犬の毛並みは、その1本1本までもが、はっきり、くっきり、これなら、顔の皺、白髪の1本までも、写ってしまうでは無いか?光学ズームに較べて、タムロンの望遠レンズを装着しているので、これ又、苦労せずに、一定の距離からも、背景が、程よく、ぼけて、手前はくっきり、背景は、モヤッと、何とも、良い感じである。今後の課題としては、PCへの画像の取り込み手段である。どうしたものであろうか?心配していたレンズのカビも、なさそうである。新たな愉しみが出来たのは良いが、何とも、悩ましい話である。


ペットの便に思う=人間様はどうだろうか?

2011年10月09日 | 動物・ペット
我が老犬は、既に、16歳8ヶ月になるであろうと思われるが、(動物愛護センターから、殺処分を免れて、生後3ヶ月頃の子犬で、講習を受けて、引き取ってきたので、生年月日は、飽くまでも推定である。)これまでは、ずっと、長い間、外で、番犬として、飼われていた。寄る年波には勝てず、昨年からは、家の中で、飼うことにした。天気がどうであれ、晴れようが、大雨になろうが、きまって、朝晩には、散歩に、早く連れて行けとばかりに、催促する。さすがに、最近では、歳のせいか、ワンワンではなくて、フギャーンというような甘え泣きに、なってきた。盲導犬などは、必ず、決まった時間帯に、排泄を習慣づけさせ、食事も、決まった時間帯で、行わないといけないらしいが、これも、又、大変なことである。何せあちら様には、休日というものは、無いのであるから、、、、。排泄の時に、よく観察していると、その便の質が、羨ましいほど、理想的で、実に、よろしい。とにかく、一寸、息むと、スルッと程よく、固からず、柔らかすぎず、誠に、「便秘とは無縁」の本当によい便を排泄する。しかも、決まって、朝夕、1日に2回である。ドッグ・フーズの説明では、(免疫力の維持)、(ビタミンEの抗酸化性強化)、(アミノ酸バランス)、(骨・関節の維持、グルコサミン酸配合)、(オリゴ糖・ハーブ配合の高い消化・吸収性)、(歯垢を除去しやすい大きな歯磨き粒入り)、(皮膚・被毛の健康維持)、しかも、(ISO 9001,14001の工場)で生産されている(安心・安全・健康)の高齢犬用の商品だそうである。もう7-8年程前になるであろうか、痔核の摘出手術を受けたことのある私は、その時、病院から、イヤと言う程、「排泄と食事の大切さ」とを学ばせて貰った。人間にも、犬並みとは言わないまでも、健康なこうした食べ物が、出来ないものであろうか?そんなことすら、考えされられそうになる位、本当に、羨ましい理想的なウンチである。本当に、「快食・快便・快眠」である。これに較べて、人間様の生活は、如何なものであろうか?ふと、疑問を呈せざるを得なくなる。我が老犬は、自分のベッドで、気持ちよさそうに、今日も又、すやすや、朝食後・散歩後のおきまりの熟睡中である。


アップル創業者、S・ジョッブズ氏を悼む

2011年10月08日 | 社会戯評
もう、四半世紀以上も前のことであるが、ソニーのウォークマンのステレオ版というのを取引先の人が、海外出張に持ってきて、その音質の良さと、録音できたこと、そして、その携帯性に(今から、思うと、大分、大型だったが、、、)驚愕の念を禁じ得なかったことを今でも、覚えている。あのウォークマンですら、アップルが、その後、開発したアイ・ポッドや、ネット経由での音楽ダウン・ロード方式やiTuneによって、CDやMDもろともに、市場から、一挙に、駆逐されてしまったのは、その「技術の革新性と独創性」の賜物であった故であることは、言を俟たない。「半歩遅れの技術」の商品で、満足し、後追いする私(ISDNのトラウマに捕らわれる私)にとっては、アップルPCや、アイ・フォンや、iPadなどは、依然として、馴染みはないが、さすがに、そのデザインの先見性、タッチ・パネルなどの機能性、等の徹底した追求は、どうして、ハードのみを得意とする日本企業は、その発想においてすら、商品化出来なかったのであろうか?ホンダやソニーの戦後間もなく誕生した企業の斬新な技術革新力は、今や、どこへ行ってしまったのであろうか?いつ頃から、こんな状態になってしまったのであろうか?「ハングリーであれ、馬鹿であれ」と送辞を述べた、稀代の天才的なIT旗手の後継・次世代を創造し、変革していく若い人々は、今後、現れるのであろうか?特に、閉塞感漂う今日の日本では、そうしたサムライが、強く、望まれてやまない。先見性を持ち、時代を担う世界に通用する人材の育成こそが、望まれてやまない。iPhone4には、予約客の長い行列が出来ているそうであるが、そのうち、作る側に廻る人は、一体、どれ程の人が、今後、でるのであろうか?何とも、寒々しい限りである。


どんぶり、再考(最高!)

2011年10月07日 | 男の手料理・食
未だ、外食という言葉のなかった子供の頃、店屋物を取るというと、決まって、カツ丼と相場が、決まっていた。しかし、いつの頃からか、「カロリーが高い」というその理由だけで、親子丼に、その席を譲らざるを得なくなった。男が作る料理の中で、丼物は、やはり、(ご飯)X(何)X(何)という構図の中で、とても、作りやすく、便利で、合理的である。例えば、カツ丼、親子丼、鮭の親子丼、海鮮丼、鉄火丼、焼き肉丼、焼き鳥丼、等、これに、味噌汁や、スープを組み合わせれば、ほとんど、パーフェクトで、バラエティーに富み、且つ、味に、大きな当たり外れがない。そんな中でも、親子丼は、和風スープにも、玉ねぎと鶏肉・皮、そして、スープの素に、出汁つゆを共通原料としても、共用可能であることは、言を俟たない。小さな鶏肉のパックも、スープを一緒に、作れば、無駄にすることなく、完食は、間違いない。やはり、つゆだくが、一番である。



金木犀の淡い甘い香り=季節の臭いを愉しむ

2011年10月06日 | 自然・植物・昆虫
季節の移ろいや、紅葉を、目で、愉しむのも、一興ではあるが、散歩に、出たときに、どこからともなく香ってくる金木犀の淡い甘い香りは、何とも、秋が、深まりつつあることを再認識させてくれる。秋の彼岸過ぎに、静岡の墓参りに、行ったときには、田んぼの畦道に、赤い彼岸花が、一面に、咲き誇っていて、彼岸なんだなあと、改めて、季節の移ろいが感じられた。成る程、真夏の夕立の雨の臭いも、夏草の臭いも、ラベンダー畑の優雅な香りといい、秋の落ち葉の臭い、金木犀の香りといい、目には見えないけれど、五感を、何気なしに、刺激してくれる季節の移ろいは、本当に、贅沢なものであると思う。春・夏・秋・冬、それぞれの季節の「色」・「香り」を、散歩の時には、思い切り、愉しみたいものである。お供をしてくれる我が老犬も、良い香りが分かるのか、顔を突き上げて、鼻をクンクン、嗅ぎ廻している。


テレックスというものがあった頃の思い出話

2011年10月05日 | 社会戯評
もう、40年以上前の話であるが、海外とのやりとりには、当時(今でも?)、テレックスという機械で、KDDが、独占的に、回線を管理していた。とりわけ、発展途上の海外の国との交信は、一度、申し込みをして、先方を呼び出さなければ、オン・ラインにならず、その間、待機していなければならなかった。もっとも、夕方や、朝は、ラッシュ・アワー並に、混雑するから、しかも、海外との時差が、6時間とか、10時間もあろうものなら、自ずから、時間外、深夜に、及ぶことが、まま、あった。結局、さん孔機というテープに、メッセージを穴開けする機械を購入し、事前に、印字済みテープを用意して、オン・ラインになるまで、待機していなければならない。何とも、今から思えば、時代錯誤の感じがしなくはない。そんなこんなで、仕事が終了してから、結局、若い社員は、残業代稼ぎがてら、女性スタッフとともに、夜遅くまで居残り、多くの社内カップルが、当時、必然的に、誕生したものである。それもやがて、FAXに取って代わられ、更に、その後には、電子メールへと、進化(?)していった。何とも、おっとりとした時代が、あったものである。ワープロといい、テレックスや、感光コピー機は、時代の技術進歩の中で、どこへ、消えていってしまったのであろうか?スマホや、アイ・パッドの宣伝を見るにつけ、当時のよすがが、懐かしく、想い出される今日この頃である。


旧くなったワープロに想う

2011年10月04日 | 社会戯評
亡くなった父が、よく活用していたシャープの書院や、東芝のルポは、今や、納戸の肥やしと化していた。タイプを打つことも、英語もわからなった父は、引退後に、出始めたワープロを勉強し、結局、NEC 98 PCまでも、何とか、曲がりなりにも、努力の結果、打てるようになった。むろん、ひらがな入力ではあったが、、、、。もう今から、四半世紀前であったであろうか、アメリカで、初めて、未だ、FAXすらも、余り、普及しておらず、テレコピアとか、言われていた時代、初めて、ワープロを見たときの驚きは、今でも、覚えている。もっとも、当時は、記録する容量が、異常に小さく1 X 10センチ程のテロップに、打ち出される文字を、すぐさま、印字しないと、保存できずに、消えてしまう。これには、何とも、苦労したものである。長文の文章をやっと、打ち終えて、一安心するも、印字を忘れて、又、一から、やり直すとか、今にして想えば、まるで、子供のおもちゃのようなものであった。それでも、最先端を行っているのだという自負心から、勇んで、活用していたものである。その後、Windows 95が、本格化するにつれて、歴史の表舞台から、静かに、消えていく運命を辿ったのはご存じの通りである。納戸の肥やしと化したワープロを、引き取って貰おうとネットと店頭で見積もりを取ったところ、一つの機種は、もはや、引き取れないほど、旧くて、断られた。仕方なしに、立ち上げて見ると、何と、父が、まだ、小学生だった時の娘のお誕生日祝いの際にワープロで作ったメッセージが、保存されていたので、これを早速、印刷してみた。そこには、何とも、おぼつかない文章ではあるが、一生懸命、ワープロを使いこなそうとする父の姿勢が、行間に、滲み出ていて、大変、懐かしく想った。



野鳥の餌台を、塗り替える

2011年10月03日 | 動物・ペット
毎年、秋の乾燥した、ひんやりとした空気が、感じられる季節になると、ベランドの塗装を、やり替えることにしている。夏の急な夕立も、気にならないし、又、乾くのにも、それ程、時間を要しないのがよい。脊柱管狭窄症の私にとっては、少々、手に余る広さのベランダではあるが、先日、残していた余りの塗料を使って、一度、塗装してみたところ、缶の底の部分を、良くかき混ぜたつもりが、どうやら、十分攪拌されておらず、丁度、半分づつ、真ん中から、ツー・トーン・カラーになってしまった。従い、今回は、手すりの表部分を含めて、再度、新しく、塗り替えることにし、ついでといっては、何であるが、野鳥の餌台も、塗ってみた。ここのトンボやヤマガラは、やたら、人懐つこくて、平気で,トンボなどは、頭や、肩に、止まってくる。ヤマガラは、餌が無くなったりすると、群れで、けたたましく、鳴き、向日葵の種やピーナッツの実を堂々と催促しにやってくる。その昔、冬場には、手から、餌を取ることもあったが、余りに、人に慣れすぎると、鳥にとっては、危険であると判断して、手渡しは、それから、止めることにした。


青鞜社100周年に想う=平塚雷鳥と女性解放問題

2011年10月01日 | 社会戯評
信州、佐久市望月に在住している「もろさわようこ」女史(歴史を拓く初めの家)も、今年で、もう、86歳になられるそうである。信濃毎日新聞に、「信州のおんな」の蘭で、「青鞜社」と、平塚雷鳥のことを、論じている記事を見かけた。1811年(明治44年)に創刊された女性雑誌には、有名な言葉である、「原始、女性は、太陽であった」が、巻頭を飾り、表紙には、後の高村智恵子(高村光太郎の妻)が、デザインし、又、与謝野晶子が、詩を掲載したりしていた。わずか、5年間ではあったが、神近市子や、野上弥生子、後には、伊藤野枝(大杉栄とともに、甘粕大尉により、殺害される)等を輩出し、女性選挙権、堕胎論、売娼制度、過酷な長時間労働と低賃金制度、等の社会問題を、女性解放運動として位置づけて、大正初期にかけて、活動したものである。形こそ、替えてはいるが、未だに、共通する課題は、あれから、100年経過した今日でも、継続課題である。放射能の危険を、ネットで、警告、結集した若い母親達が、厚生労働省を、突き動かしたように、新たな潮流が生まれることを期待したいものである。それにしても、戦後の原水爆禁止運動や、杉並区から、発生した子供を守る会や、母親大会も、女性誌の衰退とともに、どこに、消えてしまったのであろうか?