【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

宇宙の外/『孔子と老子』

2008-10-08 18:36:38 | Weblog
 今回のノーベル物理学賞のニュースのことを子どもと話していて「宇宙の外」が話題に登場しました。子どもは「宇宙の外になにもない」が直感的にわからない様子です。「少なくとも『外』があるんじゃないか」と。私も説明に困ります。
 もしかしたら人は「何もない」「空虚」というイメージを「ある」「存在している」と対比して捉えがちなのかもしれません。たとえば「(何かあったものが)なくなった」「ある容器の中が空っぽ」といった具合に、何か「存在する」を一種の認知の枠組みとして使うことではじめて「ない」「空虚」をイメージとして持てるのかもしれません。ところが宇宙の外にはそもそも「枠」が設定できません。だから宇宙の外になにもない、がわかりにくいのかな。

【ただいま読書中】
『孔子と老子 ヤスパース選集22』カール・ヤスパース 著、 田中元 訳、 理想社、1967年(76年5刷)

 本書を読む者は、二重に気をつけなければならないでしょう。「孔子と老子」についてもですが、それを書いたのがヤスパースですから彼の哲学についても無防備でいるわけにはいきません。もちろんヤスパースが公正に書こうとしているだろうことは信頼できますが、それでもヤスパースが自分の哲学からまったくフリーの立場になれるとも思えません。さらにその日本語訳ですから、読者は三重に気をつける必要がある、と言うことになります。おっと、「すでに自分が持っている孔子像・老子像」の影響も考えたら、四重の注意が必要だ。

 孔子は歴史を規範とし、かつそれを批判的に見た、と著者は述べます。ただ、西洋人には「先祖崇拝」は不慣れな考えなのでしょうか。著者は孔子が儒者(祭礼を司る階層)の出身であることの基礎に先祖崇拝があることを重視しません。しかし、孔子の「歴史的な見方」(論理)の裏打ちとして「先祖崇拝」(感情)があるからこそ、孔子の教えは東洋に根付いた、と私は考えます。ともかく「過去に学ぶ」態度をそのまま未来に向けたら「自分が学習を続けること」と「弟子を教育すること」になります。
 「大きな二者択一」があります。「世間から孤独のうちに退く」か「人びととともに世の中で生き、この世を形成する」かです。孔子は後者を選択します。そして孔子は「理想の君子」を描くことで「個人と社会のあり方」を述べました。礼とか楽とかについての記述のあと、著者は孔子の「ことばを正しくすること」に注目します。内的存在とことばの不一致は世界を乱すからです。哲学者らしい着眼だと私は思います。

 次は老子。「道(タオ)」が登場します。老子は本来無名の「存在の根拠」を「タオ」と名付けました。ただしタオへの言及は、否定的な言辞の連続になります。肯定的に表現したら、タオは有限となり世界の中で消費されて消滅してしまうからです。ついで「無為」。これは「なにもしないこと」ではありません。無為はタオそのものの根源からの自発的な介入による行為です。そしてそれは「言い表すことができないものを言い表そうとする」行為でもあります。西洋では、形而上学・倫理学・政治学と分けられるものを、老子は一体として扱います。道がそれを結合させるのです。
 ただ、老子に思惟は「情熱をなくし何もしないことがタオへの接近の早道」と考える誤解者を多く産みました。老子は世を超越しましたが現世は捨てませんでした。しかし老子の考えを手っ取り早く誤解して、隠棲者となることを選択する人が続出します。後継者は荘子ですが、荘子も老子とは大きく違います。
 ヤスパースは老子の「問いかけの欠如」を強く批判します。孔子には弟子との問答がありましたが、老子にはそれがありません。「世界はこういうものだ」とぼんやり提示されて、反論も追究もできない状況が気に入らないのかもしれません。ポパーの「反証可能性」のことを私はここで思い出します。西洋的なロゴスの枠組みから逸脱していたはずの知の巨人も、やはりある限界はあったのではないか、と私はえらそうに思います。