【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

第4の権力の使い方

2017-11-05 19:25:52 | Weblog

 独裁者ってマスコミを攻撃する傾向がありますが、御用新聞は“身内”として扱う傾向がありますね。ということは、マスコミに対してそういった二面性を示す権力者に対しては、その主張の内容以前にその態度から警戒心を抱いた方が良い、と言うことに?

【ただいま読書中】『チャップリンとヒトラー ──メディアとイメージの世界大戦』大野裕之 著、 岩波書店、2015年、2200円(税別)

 1889年4月16日チャールズ・スペンサー・チャップリン誕生。1889年4月20日アドルフ・ヒトラー誕生。わずか4日違いでこの世に登場した二人は、51年後にそれぞれ別の世界で「独裁者」として君臨することになります。
 1940年6月23日ヒトラーは「征服者」として前日陥落したばかりのパリに入りました。そのニュースが世界中を巡った6月24日、ハリウッドでチャップリンは「独裁者」のラストシーンの撮影に入りました。あの有名な「演説のシーン」です。まだ「中立国」だったアメリカではヒトラーを「反共の砦」「破綻状態のドイツを救った英雄」とする見方もあり、この「演説」は「危険な企て」でした。実際、チャップリンはあちこちから(身内からさえ)否定的な見解や脅迫さえ受けます。
 本書では「誕生日が近い」「ちょび髭」「芸術家を志した」「ショーペンハウアーの読者」といった「共通点」だけに注目するのではなくて、二人の「メディア」を「戦場」とする「闘い」をテーマとしています。「メディアでの闘い」は、歴史上この二人によって大規模な戦闘が初めて開始され、それは現代のインターネットでの「闘い」に引き継がれているのではないか、が著者の見解です。
 チャップリンの「キッド」は世界50ヶ国以上で上映され、史上初の世界的大ヒット映画となりました。また「チャップリン」という「キャラクター」が世界中で真似されるようになりました。つまりチャップリンは「映像メディアの世界化」「キャラクター・イメージの発明」という二つの偉業を成し遂げたわけです。
 ナチスははじめはチャップリンを無視していました。しかし1926年、突然「攻撃」が始まります。最初は「ドイツで『黄金狂時代』を論じた映画人がすべてユダヤ人だ!」というものでしたが(実はユダヤ人ではない人も混じっていましたが、そんなことはお構いなしの攻撃でした)、それはすぐに
「チャップリン・ユダヤ人説」「チャップリン個人への人格攻撃」になります。ただイギリスの戸籍を調査した結果では、その説には根拠はないようです(「ロマ」の血は混じっているようですが。また、チャーリーの異父兄のシドニーの父はユダヤ人だと兄弟は信じていました(これまた確定的な根拠はないようですが))。ただ「ユダヤ人は滅ぼすべき“敵”である」「チャップリンはナチスの敵である」「したがってチャップリンはユダヤ人である(でなければならない)」という“三段論法”をナチスは使ったのでしょう。ドイツ国内だけではなくて、アメリカでの「担へ銃」再公開を「チャップリンはドイツの敵」と非難し、ブルガリアでの再公開にはドイツ大使が抗議して上映禁止にしています。
 1927年はじめにトーキー作品「ジャズ・シンガー」が公開されます。「映像」が「音声」を持ちました。これにより、チャップリンもヒトラーも運命が変わります。本書では「ヒトラーの職業は『演説家』『扇動家』」とされます。しかし、プロパガンダで聴衆を熱狂させるテクニックは天才的なものでしたが(チャップリン自身、ヒトラーのプロパガンダニュース映画を見て「ヒトラーは天才的な役者だ」と評しています)、個人演説会では聴衆の数に限界があります。しかしトーキー映画を使えば、全国に自分の影響力を及ぼすことができるのです。ヒトラーはそれを見逃しませんでした。このメディア戦略によって33年にナチスは政権の座に上り詰めます。
 トーキーが大流行となった世相に反して、チャップリンは「街の灯」をあえて「サイレント」で撮影しました。ただし自分が作曲した曲を散りばめて「サウンド版」として「芸術家チャップリン」の新境地を開きます(「サイレント映画のチャーリー」というキャラの変容(没落)を恐れてのことでした)。そして31年にチャップリンは世界一周旅行に出発。その途中に「小さな政府、物価統制、貿易は国際主義、労働時間短縮、最低賃金を上げる、ヨーロッパ通貨の統合」といった主張を盛り込んだ経済論文を執筆します(世界恐慌発生の数週間前に株をすべて売り抜けていることを見ると、チャップリンの経済感覚は相当のものだったようです)。ドイツを訪問すると、群集は大歓迎でしたが、ナチス系の新聞は激しくチャップリンを非難し続けました。最後に訪問した日本では5・15事件が起きますが、チャップリンも暗殺の対象とされていました(対米開戦の口実にできる、という目論見だったそうです)。
 33年ヒトラーは首相に任命され「平和外交・国際協調、ヴァイマール憲法の遵守、多党制の維持」などを謳いますが、言葉と行動は見事に正反対であったことは歴史を見ればすぐわかります。そしてゲッペルスの宣伝省は様々な検閲を本格的に開始しますが、チャップリンの映画も「全面禁止」とされました。その理由は「チャップリンはユダヤ人だとナチスは信じていた」「チャップリンが平和主義者で、その主張が大衆に人気がある」「ヒゲ」と著者は考えています。(ちなみに、チャップリンは「ユダヤ人だという非難」に対してまったく反応しませんでした、これは「自分はユダヤ人ではない」と反論することがユダヤ人差別の主張と重なってしまうからでしょう(「自分はユダヤ人ではないから問題はない」と言うことは「ユダヤ人には問題がある」と言うことに等しいからだ、と推定していたのは、誰だったかな。何かで読んだのですが、タイトルを忘れました)。「ヒゲ」はたしかに「イメージ」を気にするヒトラーには大問題でしょう。「自分の個性」であるはずの「ちょび髭」をチャップリンが(それも自分より先に)つけているのは、文字通り体面にかかわります。だから映画だけではなくて、ポストカードや書籍もすべて販売が禁止されました。さらに「チャップリンが盗作をした」キャンペーンと嫌がらせ訴訟を起こします。ところがドイツ以外の国では「二人のヒゲ比べ」が堂々と行われました。もちろん「笑う」ためですが、ヒトラーにとっては「他人に笑われること」は許しがたい侮辱でした。
 チャップリンは『独裁者』で「独裁者」を描写しましたが、この構想は初めてではありません。実は1920年代から「ナポレオン」を映画化しようと真剣に計画を練っていたのです。それも「反戦」の立場から。しかし様々な事情から計画は中断。チャップリンは「別の映画」を撮ることにします。「独裁者」と「チャーリー」とをチャップリンが一人二役(イギリスのミュージック・ホールでの定番ギャグ)で演じ、「独裁者」はセリフを喋り「チャーリー」はパントマイムで演じることで、風刺と「チャーリーをトーキーに順応させる」ことの一挙両得を狙います。ところがその噂が流れると、ドイツはもちろん、チャップリンの母国イギリスも妨害運動を起こします。まだ撮影前なのに「イギリスで公開できるものかどうか検閲するから脚本をよこせ」との要求です。アメリカでも「ドイツを刺激してはならない」という人びとから抗議や脅迫の手紙が続々と。
 39年、ついに開戦。ドイツは連合国の「敵」になります。しかし「独裁者」を制作するな、というチャップリンへの圧力はさらに増しました。こんどは「反戦のメッセージ」が危険視されたのです。しかし「全体主義へは『笑い』が武器になる」と、チャップリンを支持する人もたくさんいました。
 構想段階から、チャップリンが残した下書きや口述筆記や脚本の没原稿、撮影してもカットされた場面なども参照しながら、著者は「独裁者」を精密に分析していきます(即興にも見える「地球儀とのダンス」も精密に流れが組み立てられていることは私には意外でした)。しかし、せっかく撮影されたのに捨てられた場面が多いのには驚きます。私の中のもったいないお化けが騒ぎますが、でもそうすることでチャップリンは「テーマ」をくっきりと浮き彫りにしていったのです。こうしてチャップリンが推敲と編集に苦闘している間、戦局はどんどん厳しくなります。すると世論とマスコミは“手のひら返し”をします。「チャップリンはすでに完成している作品の公開をしぶっている」と勘違いして、「早く公開しろ」とチャップリンを非難するようになったのです。1年前に自分たちが何を言ったのか、マスコミには記憶力がないようです。記憶力ではなくて、恥の概念と自尊心かもしれませんが。
 編集、再編集、再撮影、再編集、またもや再撮影……そしてやっと公開。批評家たちは一斉に酷評。右派は「共産主義的だ」、左派は「生暖かいセンチメンタリズムに過ぎない」、映画専門の批評家は「『チャーリー』のキャラに合っていない」と。しかし、観客は絶賛し最後の演説は大衆が愛する名文句となり、前年公開の「風と共に去りぬ」を越える大ヒットとなります。
 ちなみにイギリスの批評家たちは「笑いこそがナチスへの武器だ」と、アメリカの斜に構えた批評家とは一線を画しています。
 結局「メディアの戦場」では、チャップリンがヒトラーに勝利しましたが、これには“後日談”があります。アメリカの右派はチャップリン攻撃を続け、とうとうアメリカからの追放に成功してしまったのです。よほど彼の主張が気に入らなかったのでしょう。「機動戦士ガンダム」には「貴公はヒトラーの尻尾だな」という名台詞がありますが、アメリカにも「ヒトラーの尻尾」はたくさんいたのですね。そして、ネット上の発言を見ると、現代にも「ヒトラーの尻尾」はうようよしているようです。