【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

生殺与奪の権利

2017-11-11 07:13:31 | Weblog

 自殺願望があるとおぼしき人を誘い込んで次々殺した、という事件のことを見ていて、もしかして「自殺幇助だから殺人ではない」と主張するつもりかな、なんてことも考えて、ますます不愉快になってしまいました。殺人は殺人ですから。
 ここで昨年の「障害者なんか、殺してもいい」と実行したりそれに賛同したりしている人たちのことも思い出してしまいました。
 結局「人を殺したい」という欲望を正当化するために「○○だったら殺してもいい」というリクツを後付けしている点ではどれも同じに見えるんですよねえ。もしそういった主張が正しいのだったら、私が「お前らは社会のクズだから、自分の主張通り自分で自分を始末しろ」と決めつけたら、それに従って自殺するのでしょうか? それとも「どうしてお前にそんなこと(自分の生死)を決めつける権利があるんだ!」と反論する? もし反論するのだったら「自殺願望」「障害者」といった「理由」で他人を「殺してよい」と決めつける「権利」が自分にある、と考える根拠も示して欲しいものです。その「根拠」を私も使わせてもらいますから。

【ただいま読書中】『江戸の火事』黒木喬 著、 同成社、1999年、2500円(税別)

 江戸時代を通じて、江戸では大小合わせて1798件の火事があったそうです(よく数えたものだと感心します)。江戸以外を全部足しても火災の件数は江戸に届きません。江戸は全国でもまれに見る「火災都市」だったのです。火事の原因で多かったのが放火。食い詰めた人が火事場泥棒をするために放火、ということが多いのだそうです。また、再建のために資材が大量に必要になり、職人の仕事と賃金が上昇するので景気が浮揚する効果もあり、大火で喜ぶ人も多くいました。
 幕府が重視したのは、江戸城を火災から守ること、というか、火災に乗じて生じる変乱から城を守ることでした。治安重視です。江戸城で火災が起きた場合には、小姓組・書院番・新番・小十人組などの将軍直属の戦闘集団が消防に出動することになっていました。さらに江戸城を守るために幕府は大名に命じて「奉書火消」を命じました。年度によって任命される大名には変動がありますが、慶安二年(1649)のリストには「浅野内匠頭長直」が含まれています。忠臣蔵で有名な浅野長矩のお祖父さんで大活躍をして江戸っ子の人気者だったそうです。各大名は自分の屋敷の防火(自衛)のための組織を持ちそれは「各自火消」と呼ばれましたが、近隣の火事の場合にも自衛のための出動をしてそれは「近所火消」と呼ばれました。ただ「近所」の場合は火消衆が到着したら引き上げろ、と幕府が通達を出しています。「火事」は大名屋敷の塀を乗り越えるべきではない、が幕府の主張のようです。また、大名屋敷の火事の場合、表門を焼かなければ内済にでき、駆けつけた加勢の火消しも表門が開いていなければ中には入れなかったそうです。
 大名火消で有名だったのは加賀前田家の加賀鳶で、屈強な者を揃え派手な恰好で隊列を組んで出動していったそうです(その時、左手と左足、右手と右足を同時に出していた、とわざわざ書いてあります。江戸時代にもそれは目立つ歩き方だったのでしょう)。大名にとって「火事」は「敵の襲来」だったので、火消しは「戦闘」でした。だから家来が下知によって整然と行動することや誰が手柄を上げるかはとても重要でした。
 明暦の大火の翌年、万治元年(1658)幕府は「定火消」を創設しました。旗本から選抜された与力と同心・臥煙(消防夫)を何組か組織し、江戸城を取り巻くように配置されました。ただその働きぶりは、大名火消しや町火消しには見劣りするものだったようです。
 慶安元年(1648)幕府は各町に消防のための人足を置くことを命じました。「店火消(たなびけし)」「駆付火消(かけつけびけし)」と呼ばれ、消防に駆けつけると褒美、さぼると過料となりました。万治元年(1658)南伝馬町など23町が自主的に火消組合を作ります。火元の町の、両隣の2町・向かいと裏それぞれ3町、合わせて8町に「駆けつけ義務」が課せられました。しかし所詮素人。駆けつけるのは遅く、集まってもうろうろするばかりで邪魔。そのため“専門職”としての「町火消」が享保年間に創設されます。いろは四七組です。これが町屋の火事に機動的に対処できることがわかったので、幕府は、幕府の施設(銀座など)や増上寺などの防火も町火消に命じるようになりました。働けばご褒美はもらえますが、負担増に火消したちは悲鳴を上げて「勘弁してくれ」の嘆願書を出しています。延享四年(1747)四月一六日江戸城二の丸が全焼しましたが、そのとき町火消17組の人足4898名がはじめて江戸城内に入りました。定火消や大名火消が消した後の跡火消を担当し、徹夜で作業したことに対して、人足には銭一千貫文、名主132名に33両が与えられています。天保九年(1838)の西丸全焼、天保一五年(1844)の本丸大奥の火事でも町火消は城内で消火に当たっています。この頃には町火消しは、鳶職人を中心とした機動的なプロフェッショナル集団になっていたので、役人も信頼していたようです。
 「消防七つ道具」の一つ「竜吐水」は寛永四年(1751)に初めて史料に現れますが、火消したちは最初否定的でした。高価で(宝暦五年(1755)時点で6両2分)かさばるし壊れるし効果は不確実、という理由です。実際に、竜吐水の水箱へは井戸から水を運ぶ必要があるし、放水能力はせいぜい15〜16メートルですから、それほど効果があるものとは思えません。しかし幕府は「使う使わないは自由、破損の修理代は町内で持つ」という条件で明和元年(1764)に25台を給与しました。
 消防に使う道具に「団扇」があるのには笑ってしまいます。火の粉を扇いで追い返せば延焼が防止できる、というリクツだそうです。ただ、「家に飛び込んできた米軍の焼夷弾は掴んで外に捨てろ」とか「焼夷弾で起きた火災は火ハタキで叩いて消せ」とか言っていた昭和人には、江戸の人間をあざ笑う資格はないかもしれません。
 出初めの梯子乗りは有名ですが、寛政一二年には「火事でもないのに道具を持ち出して梯子で芸をするのは良くない」と禁令が出されています。なんだか、くそ真面目ですね。
 火事場では、野次馬がとても邪魔でした。「火事場見物禁止」令が出されますが、まったく効果はありません。また「喧嘩」もしょっちゅう起きました。火消しの間で「先陣争い」「活動に都合の良い場所の奪い合い」「(消火に一番効があったという)手柄の奪い合い」での大喧嘩です。「火事と喧嘩は江戸の華」と言いますが、江戸後期には「火事場の(火消し同士の)喧嘩」が「江戸の華」だったようです。
 放火に対しては火刑となっていましたが、それでもあまりに放火が多く「火付盗賊改」が置かれました。これも「放火と盗賊」よりも「放火しての火事場泥棒」を取り締まることが所期の目的だったのかもしれません。
 将軍吉宗は「江戸の不燃化」を夢見ました。そのための手段は「火除地の設定」「土蔵造りや瓦屋根の普及」でした。もっとも、せっかく火除地を作ってもすぐに人が入り込んで家を建てたりするし、瓦は重いし高いのでなかなか普及しなかったりで、だから大火が根絶できなかったのですが。そして「火に弱い」伝統は、関東大震災、さらには東京大空襲にまで保存され続けることになります。さすがに今はもう大丈夫、ですよね?