【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

アベノファンの清き一票

2020-12-26 16:32:29 | Weblog

 来年の総選挙、桜を見る会で美味しい思いをした人たちはこぞってまた安倍さんに投票してその結果「みそぎは済んだ」になるのでしょうね。

【ただいま読書中】『ハワイに渡った海賊たち ──周防大島の移民史』掘雅昭 著、 弦書房、2007年、2200円(税別)

 日本人のハワイへの集団移民は、明治元年に始まっています。ハワイ王国がサトウキビ労働者を求め、アメリカ領事館書記ヴァン・リードが出稼ぎ事業の斡旋をおこないました(ちなみにヴァン・リードは、高橋是清をサンフランシスコに渡航させて奴隷として売り飛ばした人です)。明治18年には官約移民が始まり、山口県東部の周防大島を中心と好いた瀬戸内海沿岸地域の人が多く渡航しました。第一回官約移民船「東京市号」でハワイに渡航した944人のうち山口県民は420人、そのほとんどは周防大島を中心とした地域の人でした。これには、当時の外務卿が山口県出身の井上馨で彼が移民の募集を周防大島出身の日野恕助に任せたことが関係しているでしょう。明治26年の第二次ハワイ革命でハワイ王朝がアメリカ系白人に転覆されたことから、翌年官約移民は終了しましたが、それまでに2万9000人がハワイに渡りました(そのうち38.2%が広島県人、35.8%が山口県人でした)。瀬戸内海には海賊の末裔が多数住んでいて、日本中どこへでも出稼ぎに行っていましたが、その延長上にハワイもあったようです。
 ここで私が驚くのは、ハワイ移民は「棄民」ではなかった、という指摘です。長州戦争で周防大島の人たちは幕府軍を相手に功績を挙げましたが報われてはおらず不況に苦しんでいました。それを気にした井上馨が“褒賞”として高賃金のハワイ移民を特に周防大島に斡旋したらしいのです。たしかに会津の人たちは、北海道などに棄民されましたが、ハワイには行けていません。なるほど、棄民ではないわけです。井上馨は、ハワイへの出稼ぎによって外貨を獲得し、帰国者によってアメリカ式の農法を日本に移転することを考えていました。南北戦争のあおりで労働力不足に悩むハワイも喜ぶし、“一粒で何度も美味しい”政策です。
 ハワイ王国が“革命”によってハワイ共和国になったことにより、官約移民は終了、私的移民が始まります。しかし共和国政府は移民の数制限を始めていました。それに反発した日本移民の中には「アメリカに併合される前に日本が軍事占領を」と訴えるものもいました。
 ここで驚くのは、明治三年に副島種臣外務卿に対してアメリカ公使(ハワイ公使兼任)デロングが「日本がハワイを占領するなら協力する」と申し出ていたことです。アメリカが開国させた日本に助力をしたかったのかもしれません。しかし日本の意外な近代化のスピードに欧米は警戒感を抱くようになり、だからアメリカはハワイ併合を急いだのかもしれません。
 アメリカによるハワイ併合で、ハワイからアメリカへの移民も自由になりました。しかしその分、日本からの移民排斥は強くなります。しかし移民会社は強引に移民を送り込み続けました。
 明治41年に排日的な「日米紳士協約」が締結され、日本人の自発的渡航が禁止されました。ただ、再渡航や家族の呼び寄せは許されていたため「写真結婚」が広く行われるようになります(「写真結婚」は日本だと「見合い写真だけでの結婚」ですが、アメリカ人には「人身売買」と受け取られ、結果として大正時代の「排日土地法」「排日移民法」へとつながります)。
 ハワイが「州」になったのは、やっと昭和34年(1959)のことですが、ここまで立州が遅くなったのには「ハワイが元々非白人の地域で、しかも東洋人(特に日本人)が多すぎる」ことが理由だったようです。
 日清戦争や日露戦争はハワイ(と日本人社会)に大きな影響を与えましたが、第一次世界大戦はアメリカのナショナリズム高揚をもたらし、その結果排日の気運はさらに高まり外国語学校取締法(日本語学校での日本語教育の禁止)が実施されました。しかし法廷闘争で連邦最高裁判所はこの法律を違憲と判断しています。
 そして、第二次世界大戦。
 昭和38年には、周防大島とカウアイ島の姉妹島縁組みが結ばれました。できることなら、こういった平和的な関係がずっと続いて欲しいものです。