ポーランド軍捕虜の大量虐殺事件「カチンの森」について私が初めて知ったのは、昭和の時代(1972年)の『ゴルゴ13 第56話「みな殺しの森」』でした。半世紀も前にこの事件について知っていたとは、作者のチームはどこからこの知識を仕入れたのか、私はひたすら感心しています。
【ただいま読書中】『消えた将校たち ──カチンの森虐殺事件』J・K・ザヴォドニー 著、 中野五郎・朝倉和子 訳、 みすず書房、2012年、3400円(税別)
1939年ポーランドはドイツとソ連によって東西から同時に侵攻され分割占領されました。ソ連領となった東部では最低120万人がソ連領に強制移住させられ、25万人の軍人が捕虜となりました(将校は1万人)。やがてドイツはソ連に対して侵攻を始めますが、そのどさくさで、ソ連領の捕虜収容所から1万5000人の捕虜(うち将校は8300〜8400人)が姿を消してしまいました。やがて彼らの虐殺死体がカチンの森から発掘されました。一体誰が虐殺をおこなったのか、そしてその謎を戦後解明することを邪魔したのは誰なのでしょう。そして、その目的は?
行方不明になったポーランド軍将兵は1940年4月まで、コゼルスク、オスタシュコフ、スタロベルスクの3つの収容所にいました。そこから彼らは鉄道で輸送されましたが、スモレンスク西方数キロメートルでその足取りはぷつりと消えています。ソ連は(形式上は)連合国軍となったため、残存ポーランド軍とも連携して戦うことになっており、行方不明の軍人捜索にも(形式的には)協力しました。
第一報は実はドイツ軍発でした。1943年、占領地で「墓」を発見したドイツ軍はカチンの森を憲兵隊の管理下に置き「ソ連による虐殺」を世界に発信したのです。しかし連合国軍(とドイツ軍占領地に暮らす人びと)はドイツ軍の“宣伝”を信じませんでした。ドイツは、ドイツ以外の12箇国の委員からなる「国際調査団」およびポーランド赤十字の医学チーム(実はレジスタンスのメンバーも紛れ込んでいました)に自由な調査を許可しました。もちろんドイツの法医学特別調査団も活動をしています。
死体の腕を縛った縄はソ連製、死体に残る銃剣の跡から銃剣はソ連製とわかりましたが、使われた銃弾はドイツ製でした。ただし銃弾は戦前にドイツからポーランドやソ連に輸出されていました。そして殺害時期は、カチンの森がまだソ連の占領下にあるときでした。
これらの手がかりからは「犯人」はソ連の疑いが濃厚、となります。ところが連合軍の米英ソは協調して「犯人」はドイツ、としました。ちなみに原著が出版された1962年にもまだ「犯人はドイツ」が通説だったそうです。しかし著者はそれに納得しません。一次資料を求め、生き残っている関係者にインタビューを繰り返し、真相を追究します。
ドイツが第一報を発表したとき、著者はワルシャワにいて、それはソ連と連合国軍との間に離反を持ち込むためのプロパガンダだと思ったそうです。ところがポーランドの調査団が「事実」を持ち帰ります。ところがここで話はややこしくなります。連合国は「ヒトラーが悪い」と言いたい。特にソ連は「ドイツの仕業」と強力に主張します。ドイツ占領地のポーランド人はドイツを刺激してこれ以上凶悪にしたくない。ポーランド亡命政府はソ連でソ連軍と一緒に戦っているポーランド軍人たちの処遇が心配。ソ連の後援でできたポーランド愛国者同盟(将来共産主義政権をポーランドに建てることが目的)はロンドンの亡命政府の評判を落としたい。ドイツは連合国の間に不協和音を持ち込みたい。ことは「政治」になってしまったのです。
イギリスは「ポーランド(正義)」と「ソ連(ヒトラーに対する勝利)」を比較し、後者の方がより重要、と判断します。アメリカ国務省もそれに同意。そのため、隠蔽・論点ずらし・沈黙・的外れの非難 などが盛んにおこなわれ、さらには大量の機密文書が消滅。
それでも、犠牲者の日記、少数の目撃者の証言、報告書などから、状況の再現を著者は試みます。そして「実行犯」はソ連であることを確信します。では、その理由は? ここからは推測が主な手段となりますが、どうやら「赤化」に失敗した集団を見せしめとしてまとめて虐殺した可能性が高いようです。ポーランド人(特に将校)は共産主義に従うことに強く抵抗していたのです。しかし虐殺によって良い効果がない(それどころか自分の評判に関わる)ことがわかって、それ以降ここまで露骨な「見せしめとしての集団虐殺」は行いにくくなったのではないか、と推測されています。ということは、日本軍人のシベリア抑留で大量虐殺がなかったのは、この「カチンの森」があったからかもしれません。
「カチンの森」自体はある意味“単純な事件”です。それを敢えて複雑にしたのは「政治」。そのため、戦後になっても新しい“犠牲者(たとえば正直に発言したため左遷や処罰をされたアメリカ軍人)”が発生しています。こういう「処罰を決定した人」って、自分の良心にはどう語りかけているんでしょうねえ。