「交通事故で1年間に5000人が死亡する」と聞くと「気をつけなきゃ」と思う人が「大震災で5000人が亡くなった」と聞くと大きく動揺します。同じ死者数なんですけどね。
【ただいま読書中】『災害の倫理 ──災害時の自助・共助・公助を考える』ナオミ・ザック 著、 阪本真由美・北川夏樹 訳、 高橋隆雄 監訳、 勁草書房、2020年、3200円(税別)
「災害」とは「外部からの救助を要する突発的な物理的できごと」と定義されているそうです。だから金融破綻などでの“社会的災厄”は「物理的現象」ではないので「災害」ではありません。
戦争の医療トリアージは「平等主義」と「効率的な功利主義」をめぐる議論から生まれました。「軽傷者」は治療が少々遅れても問題はないし「死にかけている人」にも治療は無駄だから治療しないことは誰の不利益にもならない、だから治療が早急に必要で治癒の見込みがある重傷者が優先される、というリクツで、これは実は大災害のトリアージの時にも用いられます(日本では阪神淡路大震災よりあとから)。しかし「戦傷者」ではなくて「(すぐに前線に復帰可能な)売春宿で梅毒をもらった兵士」に「限られたペニシリン」が優先的に使用された例では、さすがに「道徳的な議論」が起きています。
本書では「鳥インフルエンザが人→人感染を起こすようになってパンデミックとなった場合」を想定しての「防災計画」が議論の俎上に載せられています。これはそのまま現在の「コロナ禍」についても応用できる議論です。コロナ禍での「予防接種の接種順」や「すでに使っている人工呼吸器を外して他の人に回すこと」の倫理性などについて考えたい人には、本書は好適の参考書でしょう。ぎりぎりのところまで「現実」に肉迫していますから(これは実際にアメリカでは10年以上前から議論が始まっているそうです)。
「最大数を救う」と「助けられる人をすべて救う」は、ことばは似ているようですが中身はずいぶん違います。たとえば前者では「救助行動によって生じる人命損失」も“計上”しておく必要があります。日本ではこのへんをあいまいに誤魔化して現場に責任を押しつけていますが、本来は「災害」が起きる「前」に、政治や学術やマスコミなどがよってたかって議論をしておくべきことでしょう。もちろん「すべての場合の想定」は「災害」の性質上、できませんが、それでも大原則を確立しておかないと、助けられたはずの人命さえ失うことになってしまいます。
ちなみに「私たちは災害について計画する道徳的義務がある」そうです。
著者は「徳」と「誠実さ」を重視しています。私はその基底に「一般市民の良識」に対する著者の信頼を感じました。
「災害」は非常時で、「平時の倫理」は通用しません。しかし「非常時だから」と徳も誠実さもかなぐり捨ててしまうと、非常時の後に私たちが戻らなければならない「平時」で私たちは自分自身に誠実に向き合うことができなくなってしまいます。このとき自己弁護と自己憐憫と他者(あるいは状況)を非難するだけで生きていくのは、ちょっと辛すぎますよね。