「信者」……儲け口
「狂信」……狂を信じる
「信教」……信を教える
「書信」……書き言葉は信じるに足る
「所信」……住所は信じるに足る
「信用金庫」……信用できる金庫
「信濃町」……信が濃い町
「通信」……通じると信じる
「信頼」……信に頼る
「信念」……信じろと念じている
「確信」……確実な根拠の代用アイテム
【ただいま読書中】『「盛り」の誕生 ──女の子とテクノロジーが生んだ日本の美意識』久保友香 著、 太田出版、2019年、2400円(税別)
SNSで「誰とつながっているか」を公表するのが当たり前の世界となりましたが、日本ではSNSが普及する前の1995年に、女の子たちは「プリクラ」と「プリ帳」で、「友人の友人の友人」とつながることが普通となっていました(実はプリクラ登場前には、自分たちでレンズ付きフィルムを持ち歩いて友人と“自撮り”をしてその写真をアルバムに入れて持ち歩き、お互いに見せ合っていたそうです)。日本ではヴァーチャル空間でのSNSが普及する前から、リアル空間でそれに近いことがすでに行われていたのです。ちなみに「日本の女の子の先行性」は、たとえば「カメラ付きケータイでの自撮り」「メールでの絵文字の使用」などでも発揮されているそうです。
ただ、はじめはまだ「盛り」はありませんでした。
著者の研究では「渋谷」が“焦点”のようです。「制服を着崩したような私服」「日焼けしてリゾートファッション」「茶髪」「ルーズソックス」などは渋谷から発信されていました(ルーズソックスの発祥については青山、仙台、水戸など諸説ありますが、それを全国に発信したのは渋谷でした)。バブル末期にジュリアナ東京などに出入りしていた中学生や高校生が、バブル破裂後に大人が誘ってくれなくなり、同世代だけでコミュニティーを形成するようになりました。中心となる男の子たちは「良い学校の落ちこぼれ」、女の子たちは「女子校のイケてる子」だったそうです。連絡手段はポケベル。固定電話や郵便とは違って、リアルタイムに(しかも学校をサボらずに)学校が異なる友達と連絡を取れるポケベルは「バーチャル+リアル」空間を形成することになります。
ファッションリーダー不在のゆるやかなグループ同士の繋がりの中で、「新しいイケてる恰好」は次々と生まれ、拡散していき(同時に古びていき)ます。面白いのは、制服が廃止された高校の子がわざわざ制服風の恰好をしたこと。それをちょこっと着崩しているところが「イケてる」と感じられ、その「着崩し」に個性が反映されていたそうです(まるで「守破離」です)。そういえば最近の「○○48」とか「○○○46」とかでも「いかにも制服風だけどよく見ると個人個人で細かく違っている」服装で歌い踊っていることがあります。これ、四半世紀前の渋谷が原点なのでしょうね。
そういった「イケてる女の子」を総称する「コギャル」という言葉も登場しますが、これは(ディスコで入店禁止の18歳以下の)「高校生ギャル」をもとにした隠語だそうです。
97年ころには「ストリート系」雑誌でも渋谷のファッションが取り上げられるようになりますが、その結果「拡散はレベルの低下をもたらす」の法則が働き、それまでは「イケてる外見の子は中身もイケてた」のに「外見はイケてるのに中身がイケてない子」が大増殖するようになりました。雑誌が「バーチャル空間」を作り、その結果奇抜なビジュアル(たとえば「ヤマンバ」)も登場します。また雑誌の投稿欄にプリクラを貼ったものも増えます。雑誌は「イケてる有名な子」を載せようとしますが、そのうち「雑誌に載る子が有名になる」現象になってしまいます。「イケてる雑誌編集者」は「これじゃダメだ」と、こんどは「店」に注目します。その代表が「SHIBUYA109」。「カリスマ店員」の登場です(ちなみにこのことばから「カリスマ」が広まり、1999年には新語・流行語大賞にノミネートされます)。
「ガングロ」「ゴングロ(ガングロよりさらに黒い)」「メッシュ」などの高校生が次々登場。彼女たちは(まだネットが無い時代に)雑誌を使うことで全国に「情報発信」をしていました。ただ、本書に登場する「当時センスが抜群だった子」は、日本のメディアには好ましい印象を抱いていません(「性」「奇抜さ」「渋谷」などの「自分の思い込み」「型」ばかりに注目する雑誌が多かったのでしょう)。しかし海外のメディアは「渋谷の高校生」ではなくて「その人個人のファッション」に注目して取材するので、嬉しかったそうです。著者も言っていますが、「浮世絵」が日本では「包み紙」だったのが西洋では「美術」だったのと似ているのかもしれません。
2006年ころから「渋谷の勢い」は衰退、かわりにネットが盛んになります。その少し前から少しずつ使われるようになったのが「盛り」「盛る」という言葉でした(著者が雑誌やプリ帳を調査した範囲では、2003年が初出のようです)。プリクラのコントラストを高くする画像処理技術に合わせて、濃いめの化粧をして「映える(実際の顔よりもプリクラ写真の上で派手になる)」ようにする行為が初期の「盛る」です。そして、試行錯誤の末しっかり盛ることができたプリクラが「モリプリ」。
そして、インターネットの中で「盛り」は爆発的に普及していきます。ゼロ年代の女子高校生たちは「デカ目」と「(携帯)ブログ」の世代とも言えます(「ケータイ白書2010」では女子高校生の70%がブログを開設していたそうです)。そのことは日本では広くは知られていませんが、それは「女の子の世界」で完結していたからでしょう。
著者が(そして私も)衝撃を受けたのは、たとえば「つけまつげ」。ある女の子は三種類のつけまつげを切って組み合わせてカスタマイズしてからつけています。どの子も同じようなつけまつげと思ったら大間違い。よくよく見たら「個性」があり、そしてそれが「盛り」なのです。そしてその違いがわかるのは「知識を共有している人」だけ。日本の伝統である「守破離」が、美の世界の「盛り」にも生かされている、と著者は驚きを込めて書いています。彼女たちにとって「盛り」は、素顔を誤魔化すとか誰かを騙すとかの手段ではなくて、「努力の成果」なのです。「おじさんの価値観」(本書には、女の子を生まれ持った能力(素顔やスタイル)で評価するのは、文明的ではない原始時代の価値観、とあります)との違いに、私はくらくらします。
そして時代は「盛り」から「(インスタ)映え」に。これは(本人ではなくて)状況による「盛り」とも言えそうですが。
著者が「盛り」の研究を始めたのは2010年くらいで、それを言うと必ず笑われていたのが、14年末頃から笑われなくなってきたそうです。世界は変化しているのです(というか、「女の子」たちは日本の伝統の中に生きているだけなのかもしれません)。さて、そういった世界の変化に合わせて自分も変わるか、守旧を貫くか、それは各人の「個性」が決めることかもしれません。