国民には会食自粛や夜遊び自粛を要求し協力しない者には刑罰をちらつかせて脅していた国会議員が、自分たちは忘年会や夜遊びを平気でやっていたそうです(おそらくは「政治資金」を使ってたんでしょうね)。そして謝罪会見で言うのが「政治に対する不信を招いて申し訳ない」。
これって変じゃないです? だって「夜遊びで補導された中学生」が「中学生に対する不信を招いたことを謝罪します」なんて言わないでしょ?
そもそも夜遊びをしない政治家もいるのに、それも一緒くたにまとめて一般化して「政治に対する不信」ですって? これって「政治家は皆そんなことをしている」、ということ? どうしても「不信」を使いたかったら、「不誠実な政治家に対する不信」でしょう。これって、口先では謝っているように聞こえますが、本音の部分では「ぼくだけが悪いんじゃないもん」と聞こえます。
ついでにこういった政治家の行動、国際的には「国辱もの」では? 私は日本国民として、ものすごく恥ずかしいんですけど。情けないんですけど。
【ただいま読書中】『明治維新の敗者たち ──小栗上野介をめぐる記憶と歴史』マイケル・ワート 著、 野口良平 訳、 みすず書房、2019年、3800円(税別)
「勝てば官軍」ですが、(欧米で行われている「フランス革命や南北戦争などでの“敗者”」研究のように)「敗者」に注目したら「明治維新」がどのように見えてくるか、の研究です。ここで扱われるのは「歴史」と「記憶」です。
小栗上野介は「最後の旗本」でした。その祖は家康の時代まで簡単に遡れる由緒ある旗本(領地は11ヶ村、2500石)ですが、明治維新後、旗本であるにもかかわらず無残な死(切腹を許されず、後ろ手に縛られたままで斬首される)を遂げます。この「無残さ」が維新後に「人びとの記憶」に大きな影響を与え続けました。歴史は「正当化」の「結果」ですが、当然「異論」もくすぶります。「小栗上野介」に関しても「近代をもたらした合理主義者」という見方と「官軍に対する無用な抵抗を唱えた主戦派で、だから幕府から遠ざけられ官軍に処刑された」という見方が対立しています。本書では、一次史料だけではなくて、フィクション(司馬遼太郎などの文学作品、映画、テレビドラマ)や地元での記念事業など、「人びとが彼をどう見ているか」を豊富に取り上げ、「歴史」がどのように形成されてきたか(そしてそれがどのように“現在進行形”となっているか)を明らかにしようとしています。
しかし、小栗は「頑迷な主戦論者」とは言えません。たしかに徹底抗戦を叫んでいましたが、その方法論は極めて具体的です。「箱根に陸軍を配置して薩長軍を足止め。そこに海から海軍が砲撃をして壊滅させる。さらにその後海軍は兵庫に進撃して薩長軍にさらに攻撃」という、実現可能、というか、勝利確率がずいぶん高い献策です。将軍慶喜がこれを容れていたら、歴史は変わったことでしょう。やはり(与えられた状況で、最善の策を考える)「合理主義者」だったのではないかな。
「その人がどのような人であったか」と「その人がどのような人であると世間に知られているか」と「その人がどのような人であると歴史で評価されるか」はすべて別々の事柄です。だからこそ、単純に思い込まずに、誰かの意見を丸呑みするのではなく、いろんな史料に当たってみる必要があるのでしょう。