本当は流れていないし、厳密には「星」ではありません。
【ただいま読書中】『唱歌・讃美歌・軍歌の始原』小川和佑 著、 アーツアンドクラフツ、2005年、2300円(税別)
明治政府によるキリスト教解禁に合わせて、宣教師会議は「日本語の讃美歌」を大急ぎで準備しました。明治6年聖誕祭に横浜海岸教会で日本語訳賛美歌が初めて歌われます。織田信長の時代に讃美歌が歌われて以来、「洋楽」の復活です。翻訳者は欧米人でしたが、やがて日本人の信者が翻訳にかかわり、日本語訳はこなれてきます。翻訳だけではなくて創作もおこなわれましたが、そこで応用されたのが「和讃(声明の一種)」です。これは日本人には受けが良かったのですが、それが日本の近代歌謡の出発点ともなりました。
なるほど、「昭和歌謡」も出発点は讃美歌と声明でしたか。
初期の讃美歌に見られる「叙情性」は、同時期の「新体詩」運動に取り込まれ、国木田独歩・島崎藤村・北原白秋らによって磨き上げられていくことになります。明らかに讃美歌を「本歌」とした詩も作られています。
「唱歌」は平安時代には「しょうが」と読まれ、器楽譜を声で歌うことを意味していました。それが明治12年に「スクール・ソング」の訳語として「しょうか」と読まれることで復活します。この小学校唱歌は、諸外国の民謡などのメロディーに日本語の歌詞をつけたものですが、そのキモは愛国でした。たとえば「蛍の光」の3番の歌詞は「九州から東北まで、真心で国のために尽くせ」4番は「千島から沖縄まで、武勲でつとめを果たせ」となっています。一昨日読書した『植民地 帝国支配の最前線』に「明治の北海道と沖縄は植民地」とありましたが、それが「蛍の光」の歌詞からも読み取れます。
軍歌として有名な「海ゆかば」は、本来は軍歌ではありませんでした。昭和12年に日本放送協会が東京音楽学校講師信時潔に作曲を依頼した「儀制曲」でしたが、真珠湾攻撃での死者発表時に日本放送協会がこの曲を放送し、さらにその後「玉砕」の発表のたびにこの曲を使ったために「新しい軍歌」と見なされてしまったそうです。歌詞は本来は、大伴氏の聖武天皇への忠節の誓いの歌(万葉集)なんですけどね。日清日露戦争で軍歌は様々歌われていますが、歌詞が意外に厭戦気分が満ちていたり明らかに反戦歌に見えるものが混じっていたり、本書にある歌詞を読みながら私は首を捻り続けることになりました。
国歌についても目から鱗。明治時代にこの曲を巡って宮内省と文部省が対立したため君が代が「国歌」として政府に公認されたのは平成11年の「国旗国歌法」以降のことだそうです。つまりそれまでは君が代は国歌じゃなかった。文部省はなんでそこまで“頑張った”んでしょうねえ。
鉄道唱歌は、派手な宣伝でヒットしました。最初から作曲者二人の競作で唱歌本のタイトルはなんと「地理教育 鉄道唱歌」。さらに別のバージョンも次々発売され、相乗効果で大ブームとなり、最終的に現在の一曲だけが生き残っているのだそうです。「汽笛一声」にも「歴史」があります。
大正時代には、中山晋平・西条八十・北原白秋など、私でも知っている名前が続々登場します。「かなりあ」「雨」「ちんちん千鳥」など私でも懐かしい名曲がぎっしりある時代です。ただ、どの歌にも哀愁が漂っているのは、なぜなんでしょう。「お祭り」「あわて床屋」なんてものもありますけどね。楽譜の装丁画家として竹久夢二も登場します。しかし、竹久の「耽美」は同様に似合っていたのでしょうか?
そして、マスメディアが発達し、音楽もまた大量生産大量消費の波に巻き込まれていきます。かつての童謡作家は姿を消しました。今の子供たちは、どこで「自分の童謡」と出会っているのでしょう? NHKの「みんなの歌」?
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