これからの日本が戦争をしたいとして、その「目的」は、何です?
【ただいま読書中】『渡来の古代史 ──国のかたちをつくったのは誰か』上田正昭 著、 角川書店(角川新書526)、2013年、1800円(税別)
私は義務教育で「帰化人」と習いましたし、かつての日本ではそれが普通でした。ところが著者は1965年に『帰化人』でその“常識”に疑問を呈します。その結果が「帰化人」→「渡来人」の変更だったそうです。
古事記には「帰化」のことばはありません。日本書紀には「帰化」が12箇所登場します(プラス同じ意味で「化帰」が1箇所)。面白いのは、中国からの渡来にはこの言葉は用いられず、朝鮮半島と屋久島からの人にだけ「帰化」が用いられていることです。とすると、中華思想の「中華>東夷」の枠組みの中で「東夷の中華(日本)>その他」という認識が存在していたことになりそうです。
百済や高句麗の滅亡、壬申の乱などで危機感が高まったことと関係があるのでしょう、「日本」という国号と「天皇」という称号が、天武天皇の頃に定着します。それは同時に「日本ではない国(=蕃国)」という概念の誕生でもありました。つまりは「唐>日本>朝鮮」という構図ですが、これって明治の「西欧>日本>朝鮮・中国」の構図と変わりがありませんね。「日本人」って、昔から発想が似ているようです。ただ、問題になるのは「日本人」の定義と中身なのですが。
秦氏、漢氏、王仁氏、西漢氏、高麗氏……さまざまな「渡来人一族」が紹介されます。彼らによって道教、儒学、仏教、漢字、馬など、様々な“先進文化”が「日本」にもたらされました。
7世紀に唐は新羅と連合して、百済と高句麗を滅ぼす戦略を採りました。660年にまず百済が滅亡。ついで唐・新羅は高句麗に軍を向けますが、そこで百済の遺民が蜂起し、ヤマトからも援軍が出ます。しかし百済では内紛があり、白村江の戦いでヤマト軍は大敗。その流れの中で、百済王の血脈が日本に定着することになります。その子孫敬福(きょうふく)は陸奥守となり、発見された黄金を大仏建立のために聖武天皇に献じます。なお、そのビッグニュースを知って大伴家持が詠んだ長歌の一部から「海ゆかば」の歌詞がとられています。意外なところで百済王の影響が現代にまで及んでいました。百済王氏の女性は続々と桓武朝廷の後宮に入ります(わかっているだけで九人)。その影響力は桓武天皇が「百済王らは朕の外戚なり」と言うほどでした。そういえば桓武天皇の生母も、もとをただせば百済からの“帰化人”でしたね。百済の朝廷への影響力はとても大きかったのでしょう。
「帰化」「渡来」は“大昔”の話ではありません。現代の、そして未来の話でもあります。私たちの子孫の話であるかもしれません……というか、もしかしたら、私やあなたの話かも。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます