観光客は「見るもの」でありますが、地元の人間からは「見られるもの」でもあります。ということは、観光客ではない地元の人間同士もまたふだんから「見るもの」「見られるもの」なんですよね。意識していないかもしれませんが。
【ただいま読書中】『長崎海軍伝習所の日々』カッテンディーケ 著、 水田信利 訳、 平凡社(東洋文庫26)、1964年、350円
オランダ国王ヴィルヘルム三世は日本幕府に「アメリカが使節を派遣すること」を予告しましたが、無視されました。しかし国王は日本への好意を抱き続け、蒸気船「スームビング(観光丸)」をプレゼント、さらにその乗組員を日本で海軍教育に使うように(給与はオランダ持ちで)提案します。幕府は大喜びで、オランダ人が出島以外を出歩くことさえ許可しました。
1856年(安政三年)著者は勅命で、キンデルダイク造船所で建造された「ヤパン(百馬力の蒸気船。後の咸臨丸)」を日本まで回航することになります。命令には続きがあって、日本に派遣された第一次海軍教育班と交代して第二次教育班を率いることになっていました(期間は2年間です)。翌年完成した「ヤパン」に乗り組んだ著者(と著者が選抜した隊員たち)は試運転も行わずに日本に向けて出港し、97日間で無事長崎に到着しました。湾には、オランダ船4隻と多数の日本小舟、そしてロシアの「アメリカ号」がいました。すでにけっこうな「国際化」が起きていたようです。
著者は嬉しそうに長崎を歩き回ります。断片的な記述が続きますが、私に印象を強く残したのは「咸臨丸に日の丸の旗」「長崎の人口は約6万人」「踏み絵は中止されている」「お寺の雰囲気はカトリックの教会と似たところがある」「お寺は長崎に60もある」「火事の時のオランダ人の避難所は特定の寺が指定されている」「妓楼の大夫はヨーロッパの売春婦とは全然違う」「若い女性が平気で胸をむき出しにしている」「馬が蹄鉄ではなくて草鞋を履いている」……おっとっと、キリが無いのでこの辺でやめておきましょう。私まで「オランダ人の目」で「江戸時代末期の日本(長崎)」を好奇心丸出しで眺めてしまいました。
著者は、出島の対岸の飽ノ浦に機械工場(のちの三菱長崎造船所)を建設、学校では教育と訓練、江戸には改革の意見書を提出、と多忙です。もっとも生徒が能力ではなくて身分で選抜されていること、江戸は意見書を黙殺すること、に不満を感じさせられますが。それにしても、工場建設では、機械はオランダから輸送するにしても、レンガは一つ一つ日本で焼かなくちゃいけないのでその指導から始める必要がある、というのには、気が短い私は「とても自分には務まらない任務だ」と言ってしまいます。
生徒の中では、勝麟太朗・榎本武揚・肥田浜五郎などを、その能力や献身ぶりから高く評価しています。さらに日本人が広く学んで、機関将校が甲板士官の代役を務めることさえできることを「オランダや他のヨーロッパ諸国ではとても望まれない」と特筆しています。そういえばこのことは別の本で読んだことがあります。何だったかな?
生徒たちは順調に育ち、訓練航海を日本人生徒だけですることも可能になりました。著者らは満足感にひたりますが、そこに幕府が「長崎伝習所の閉鎖。生徒は全員江戸に引き揚げ。オランダ人教官は全員帰国」と通達してきます。一同は幕府(特に井伊大老)に対して憤激しますが、著者は「幕府は『もう日本人だけでも大丈夫』と判断したのだろう」と冷静です。実際に幕府は、オランダ人から教育・訓練を受けた生徒たちの一期生を、江戸の伝習所の教官として使う構想で動いていたのです(それを長崎には知らせていませんでしたが)。ともあれ、日本と日本人に対する複雑な感想と感情を持って、著者は帰国します。
いやあ、お疲れ様でした。ありがとう。
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