管制官が配置されている国内の空港では最高高度に位置していて、山地で天気が荒れやすく、さらに今回の事故で計器着陸の機器が壊れたため、事故再発予防のために雨が降れば広島空港便は欠航だそうです。なんでそんな天気に弱いところにわざわざ空港を開港したんでしょうねえ。
【ただいま読書中】『ヒトラーの宣伝兵器 ──プロパガンダ誌《シグナル》と第2次世界大戦』ジェレミー・ハーウッド 著、 大川紀男 訳、 悠書館、2015年、8000円(税別)
1939年9月1日ドイツ軍がポーランドに侵攻、6週間後にポーランドは降伏します。ヒトラーは英仏には「平和」を提案。彼の関心はそのときノルウェーにありました。40年4月9日デンマークとノルウェーにドイツ軍が侵攻します。最重要目標は、スウェーデンの鉄鉱石をドイツに運搬するルートの確保。
そして1940年4月《シグナル》が創刊されました。《ライフ》や《ナショナル・ジオグラフィック》をお手本とした新しいスタイルのグラフ雑誌は、写真と読み物で構成され地図うあ解説の図も見やすく描写されていて、最盛期には20ヶ国語の版が出版され、隔週発行の毎号250万部の売り上げを誇りました(英米を占領したときに備えて、英語版まで出版され、宣戦布告までUSAでも実際に発売されていました)。本書ではその《シグナル》の誌面そのものを紹介しています。英語の商品広告が載っているページは、なんだか不思議な気分がします。
「ノルウェー」の目的は「英国の侵略からノルウェーを守るため」だそうです。実際に、ノルウェー侵攻をするドイツ軍に対して英国海軍はけっこうな打撃を与えています(そのため、後日予定された英国上陸作戦に影響が出ました)。つまりノルウェーにいるドイツ軍から見たら自分たちを攻撃するイギリス軍は“侵略者”になるわけです。
フランス侵攻では、従軍カメラマンが“リアルタイム”の写真を撮影しています。しかもカラー。従軍カメラマンと言えば私は「キャパ」をすぐ思いますが、従軍カメラマンが活躍していたのは連合軍だけではなかったわけです。急降下爆撃機に同乗したカメラマンもいます。急降下して爆弾が標的の敵船に命中するまでを後部座席から連続撮影しているのです。最前線からフィルムを後方に届ける兵士のオートバイ行も「敵中突破の冒険読み物」となって紹介されています。
戦争だけではなくて、ベルリン競馬場やキャバレーでのダンスシーンなどの“日常生活”も登場します。もちろん「リリー・マルレーン」も。
私には意外なことに、「強制収容所」も登場しました。ただし、ソ連の政治犯収容所で、ウクライナ人が数千人殺されていた、という写真と記事です。もちろんソ連に侵攻したドイツ軍は“解放軍”です。
やがてドイツが劣勢に立たされると、《シグナル》も凋落を始めます。ただ、“姿勢”は変わりません。せっかく「ドイツがヨーロッパから戦争を追放した」のに、連合軍がヨーロッパに戦争を持ち込んできたのです。そして、爆撃を受けたドイツの写真はありますが、それは連合軍の「テロ爆撃」を非難するためです。そして、ベルリンから疎開した編集部から《シグナル》の最終号が発行されたのは45年3月、ヒトラーが自殺する数週間前のことでした。
「プロパガンダ」がいかなるものか、“実物”で知ることができます。これはそういった点で貴重な本です。
本屋大賞があるのですから、図書館員がお勧めしたい本の大賞「図書館員大賞」あるいは「司書大賞」なんてものもあって良いのではありませんか? 部門賞として「公立図書館」「大学図書館」なんてものも作れそうです。
【ただいま読書中】『剣客商売全集第六巻』池波正太郎 著、 小学館、1992年(98年3刷)
『剣客商売』第11巻「勝負」と第12巻「十番斬り」の合本です。
大治郎と三冬夫妻に赤ちゃんが誕生します。秋山小兵衛はついにお祖父ちゃんになりました。もう孫かわいさにでれでれです。しかし、「過去」が小兵衛に、そしてまた別の「過去」が三冬を訪れ、ふたりをそれぞれ深く悲しませることになります。
ここで小兵衛が女房どのを妊娠させることができたら、同年代の孫と子ができて話がややこしくなるのですが、残念ながら(?)小兵衛の性欲は減退してしまったようです。小兵衛と同年代の剣客も次々病死するようになり、少しずつ小兵衛の住む世界は寂しさを増してきています。まるでこのシリーズの結末を暗示するかのように。
戦争中に「グラマンに機銃掃射を受けた」体験を持つ日本人はけっこうな数、います(実は私の親類にもいます)。ところが「そんなことがあるわけがない」とそういった体験談を簡単に否定する人もいるのだそうです。先日読書した『青い光に魅せられて』を書いた赤勇さんも、そういった体験(機銃掃射を受けた体験と、その話を戦後にあっさり否定された体験)をお持ちだそうです。どうして「体験をしていない人」が「体験談」をそんなに簡単に否定できるのか、私には不思議でしかたありません。もちろん人間の記憶は変容するものですから「体験談」がそのまま「ありのままの事実」である保証はありません。でも、多くの人の体験談を集めて分析したら、そこから事実に近い何か(あるいは記憶を変容させたファクター)は浮かび上がってくるはずです。大切なのは、体験が新鮮なうちになるべく多数の例を集めること。
慰安婦の問題でも、似たことを私は感じています。現在「慰安婦」は一種の「イデオロギーのリトマス試験紙」としての機能しか持っていません。だけど、丹念に体験談を集めてそれを分析すれば、「何か」が浮かび上がってくるのではないか、と私には思えるのです。あ、体験談は「慰安婦」のものだけではありませんよ。「家族」「兵士」「業者」「憲兵」などから広く「体験談」を集める必要があると私は考えています(なぜ憲兵が含まれるかと言えば、慰安所を管理していたのは憲兵隊だからです)。もう手遅れかもしれませんが。
【ただいま読書中】『帝国の慰安婦 ──植民地支配と記憶の闘い』朴裕河 著、 朝日新聞出版、2014年(15年4刷)、2100円(税別)
著者は、勇気のある人だと思います。慰安婦に関して「どちらのサイドにも立たない」と宣言することは、「両方のサイドから攻撃を受ける」ことを意味するのですから(実際に韓国で著者は「慰安婦の名誉を毀損した」と裁判を起こされています)。しかし著者は「いつのまにか“両方のサイド”からその存在をかき消されてしまった当事者と、まず対話すること」を出発点としています。さらに「帝国」という新しい視点の提示が本書ではあります。この「帝国」は「支配構造」に注目してあの時代を読み解く態度で、「国家」だけではなくて「男女」についても「帝国」というキーワードで読み解こうとしています。
「両方のサイド」とは「日本軍に強制連行された無垢な少女」vs「自発的に軍について行った売春婦」です。ふーむ……1万人慰安婦がいたら1万の、10万人なら10万の“事情”がありそうな気がするんですけどね。『女工哀史』でも女工に各人の“事情”があったように。そしてそういった「多数の“事実”」の中から「自分のイデオロギーにとって都合の良い“事実”」だけをつまみ取って「これが真実の歴史だ」と主張することは可能です。ただその時「選択されなかった“事実”」があることも見過ごしてはいけないでしょう。
本書に掲載されている写真でまず私に小さな衝撃を与えたのは、新聞広告です。「『軍』慰安婦急募(朝鮮旅館内 許氏)」「慰安婦至急大募集(今井紹介所)」と堂々と公募されている、ということは、現在とは違う社会を想定した上で現在とは違うイメージを慰安婦に関して持つ必要がありそうです。
戦前の日本には公娼制度がありました(20世紀になって数は減っていましたが、外国にもありました)。ところが一般兵士にとって戦地の売春婦は“高嶺の花”(煙草などの嗜好品で給料はなくなってしまいますから)。そこで一般兵士にも買春ができるように、が、軍の慰安所の目的となります。となると“真っ当な売春婦”だけでは数が足りません。かくして大募集が始まるわけです。
著者は「法的な意味での犯罪行為があるとしたら、それは業者」と考えています。騙したり脅したりしたのは業者ですから。しかしそういった違法行為を黙認していた日本軍が“無罪”かと言えば、そうではないでしょう。「お主も悪よのう」と言いながら知らないふりをしていただけではないかな。
性病の管理は軍医が、慰安所の管理は憲兵隊が行っていましたが、慰安婦のためを思っての管理(搾取をせずに報酬を慰安婦にきちんと配分するように業者を指導、慰安婦に暴力を振るう兵士を罰する、など)もその中にありました。ローティーンの子を憲兵が問題にして故郷に帰還させた、という話も本書に登場します。
本書で紹介される「韓国の常識」には驚かされます。たとえば「挺身隊」と「慰安婦」の混同。これ、まったく別のものなんですけどね。あるいは、「戦地から帰還できた慰安婦はほとんどいなかった」。これも嘘で、敗戦後の“引き揚げ”は「日本人」とほぼ同じ状況でした。満州ではソ連兵の強姦の対象とされた点でも。また「女性のためのアジア平和国民基金」も韓国内では“なかったこと”になっています。おっと、それ以前の1965年の日韓協定も(韓国政府からは「日本には謝罪の意思がない」ですが、日本政府からは「この話は65年に終わっている」なのです)。
またきつい写真が登場します。慰安所の入り口に「身も心も捧ぐ大和撫子のサーヴイス」という看板が出ているのです。国家は様々なものを総動員しましたが、その中には当然のように「性」も含まれているわけです。そして日本兵の慰安のためには「大和撫子のサーヴィス」が有効だから、慰安婦たちは和服を着たり日本式の髷を結ったりしたわけです。著者はだから、日本大使館前に設置されたチマチョゴリを着た慰安婦少女象に違和感を感じています。朝鮮人慰安婦は「朝鮮人」であることを捨てて「日本人」にならなければなりませんでした。慰安婦少女象を見た人々は、民族の誇りを踏みにじられた怒りは感じても、彼女らが感じた(自らの近隣社会からも捨てられた)苦しみや悲しみをきちんと感じているのだろうか、と私も感じます。
そして「帝国」。男性による女性の強姦や輪姦が、国家や男たちによって許されていた、という「問題」、「チョーセン・ピー」が相手だったら、何をしても何を言っても許される、という社会の構造のお話です。(現在でも「韓国人の売春婦のくせに」というところにその“差別構造”は保存されているようです) そして「帝国」という観点から見ると、第二次世界大戦後に東アジアで「帝国」を作ったのは、アメリカです。そしてそれは政治だけではなくて性の帝国でもありました。だからといって「日本」が免罪されるわけではありませんが。
さらに著者は、慰安婦問題で「ウヨク」と「サヨク」の根深い対立があることを「(すでに崩壊したはずの)冷戦構造」がまだ保存されている証拠として見ています。なるほど、その視点も私にはありませんでした。ただ、冷戦構造以前に「勝ち組」と「負け組」の対立として捉える視点もあるかもしれない、とも思いました。つまり日本ではまだ「戦争の決算」が行われていない、と。
さて、この問題に解決策はあるのでしょうか。著者はともかく話し合うこと、誤報と誤解をただすこと、と提案をしていますが、そもそもそれができたらここまでこの問題はこじれなかったはず。といって、「帝国」や「冷戦構造」を相手としたら、簡単な手段はなさそうです。それでも、少なくとも「自分たちがどのような構造の中にいるのか」を意識することから始めなければ、何も始まらないのかもしれません。
トマ・ピケティの『21世紀の資本』が評判になっているそうです。ただし私はまだこの本を読んでいないので(そもそもマルクスの『資本論』さえ読んだことがない怠け者なので)、本の内容については論じることができません。
最近興味深いのは「反アベノミクス」の人がピケティを根拠としてアベノミクスを批判する動きがあること。いわば「虎の威を借り」ているわけです。で、それに対して「親アベノミクス」の人で「ピケティだけを根拠にごちゃごちゃ言うな」と反批判をしている人も登場しています。
ところが、「ピケティの本だから」と肯定的に扱う人が「虎の威を借る狐」なら、「ピケティの本だから」と否定的に扱う人もまた逆のタイプの「虎の威を借る狐」になっているのではないか、と私にはこういった“論戦”を読んでいて感じられました。自説があってそれに対する“援軍”としてピケティを使ったり“他山の石”としてピケティを扱うのならともかく「ピケティである」を“軸”としてその回りに自説を展開するのは、「威を借る」態度でしかない、と思えるものですから。誰の本であろうと、まずオリジナルの自説をしっかり持った上で批判的に読んでいかないと、自説のオリジナリティは保持できないのではないかなあ。大切なのは「自説の正しさとそのオリジナリティ」でしょ?
【ただいま読書中】『壊れやすいもの』ニール・ゲイマン 著、 金原瑞人・野沢佳織 訳、 角川書店、2009年、2800円(税別)
400ページ以上のとっても分厚い短編集で31の短編が収載されています。
巻頭の「翠(エメラルド)の習作」で早速私は盛大ににやりとさせられてしまいます。物語の語り手はロンドンの有能な顧問探偵の同居人(アフガニスタン帰りの元軍人)。ホームズとワトソンか?と思わせますが、2人の名前は明らかにされません。ところが王族は「緑色の血」「治癒能力やテレパシーを持つ」「真の名前を人類は発音できない」ということで、あきらかに人類ではありません。この前読んだばかりの『革命の倫敦』(ラヴィ・ティドハー)ではイギリス王族は蜥蜴族でしたが、「非人類の王族に統治されるヴィクトリア時代のイギリス」って、向こうではけっこう人気のあるテーマなのでしょうか。
本書に集められているのは「物語についての物語」のようです。「十月の集まり」なんてすごいですよ。毎月1回、1月から12月までが焚き火の回りに集まってそれぞれの物語を語る会のお話です。順調にいけば十二個のお話が聞けるはずですが、実際には…… いやもう、この余韻が堪りません。そもそも「十月が物語を語る」なんて発想を著者はどこから仕入れたのでしょう? やろうと思えば、これだけで枠物語の長編ができてしまいそうですが。
様々な趣向と様々なスタイルで、著者は物語り続けます。物語が好きな人だったら、本書の中にどれか好きなタイプのものがみつかることでしょう。
この前、花見の人混みの中で感じたことです。
人混みで離れないようにしっかり相手の手を握る、はよくある状況です。で、その2人が寄り添っていれば良いのですが、問題は、体は離れてしかも手はしっかり握っている状況。
プロレスで「クローズライン(Clothesline)」という技があります。これはラリアットとも言いますが、腕を横に広げて走り寄って相手の首(または胸)に叩きつける技で、二人掛かりで技をかける場合もあります(2人が手を握って走って行って敵レスラーの首に叩きつける)。
上記のお二人も、集団の流れに乗っていれば良いんですよ。だけど速度が同調していない場合、前から来る人か後ろから追い抜こうとする人に「クローズライン」をかけることになるわけです。あまり人混みではやって欲しくない技です。
【ただいま読書中】『バルバラ異界(1)』萩尾望都 作、小学館、2003年、505円(税別)
夢の中の島バルバラ。人は平気で空を飛びますが、それが下手くそな少女、青羽。でも、そこでは何でも食べることができる少女、青羽。
21世紀ユング派公認の夢先案内人(他人の夢にダイブできる療法士)度会が北海道で潜るのは、7年間眠り続けている若い女性、青羽の夢。
空を飛ぶ、アレルギー、親殺し、食べる、ボルターガイスト、若返り、前世 ……さまざまなキーワードが繰り返し登場し、物語はゆっくりと夢のつづれ織りのように進行します。夢とうつつの境界線を確かめるように。全4巻の漫画ですが、ここまで“風呂敷”を広げてしまって、それだけのボリュームで“風呂敷を畳む”ことができるのだろうか、と私はちょっと心配になっています。
ネットには、「毎日充電する必要がある」ことを理由としてスマートウォッチを否定する意見がありますが、それってそこまで重大な問題なんです? 「残業代ゼロ」で「24時間戦う」人には「腕から外して使えない時間帯がある」ことは大問題でしょうが、私の場合には、日常生活では問題はありません。帰宅したら外して充電したら良いのですから。「大災害で停電が長時間続いている」状況では問題になりそうですが。
私が腕時計を使い始めた頃は機械時計が全盛で、私は「毎日」ゼンマイを巻いていました。その作業から解放されたのは自動巻が普及してからです。やがてクォーツの時代となって「ゼンマイ」からも解放され、今回のアップルウォッチで久しぶりに「竜頭」ということばを聞いた気持ちがします。
どうしても「毎日充電」を否定したければ、スマートウォッチも「充電」を「自動巻」にしたらどうでしょう。「自動巻発電」の導入です。実際に既存の腕時計でそんなものもありますから、既存の技術で解決可能なはず。そうそう、「体温」が発電に使えたら良いんですけどね。こんどは「充電の残があぶないから、寝ている間も腕から外せない」というストレスが生じそうですが。
【ただいま読書中】『青い光に魅せられて ──青色LED開発物語』赤勇 著、 日本経済新聞出版社、2013年、1700円(税別)
著者は敗戦後旧制高校に入りさらに京都大学に進学しますが、その1949年に湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞します。それは著者には大きな刺激となり、実験や研究(と散策や登山など)に没頭することになりました。卒業後は神戸工業株式会社に就職し、真空管の研究をすることになります。ついでブラウン管の開発。そこで著者は「ルミネッセンス(冷光)」という現象に出会います。そこで「光る単結晶」というアイデアを著者は思いつきます。名古屋大学に半ば強引に転籍させられますが、そこでゲルマニウムトランジスタ製造のためにゲルマニウムの単結晶づくりに取り組むことができました。精製・単結晶生成・スライス・研磨・洗浄・乾燥などすべての工程を著者は自分の手で行います。それは「実験屋」として非常に大きな経験になったそうです。
当時の日本では、半導体研究は民間(日立、東芝、松下など)の研究所が盛んに行っていました。64年に著者は松下研究所にスカウトされます。おや、東京オリンピックの年ですね。研究テーマは「光る半導体」。まず取り組んだのが「ヒ化ガリウム」。ここで「結晶の純度を高めると、結晶の性質が大きく変わる」ことを著者は学びます。そしてこの研究から、のちに赤色LEDや緑色LEDが開発されることになります。しかしどちらもすでにアメリカで開発されていて、著者らが作ったものの方が性能は上ですが「しょせんは二番煎じ」(本人のことばです)。そこで、誰もきちんと取り組んでいない青色LEDに著者は取り組む気になります。候補となった化合物の中から著者は窒化ガリウムを選択します。しかしそれは茨の道でした。「できる」と信じているのは世界で著者だけだったのです。さらに、オイルショックやニクソンショックによって、松下の研究所の環境も変わります。81年に著者は古巣の名古屋大学に戻ることにします。
それにしても、“本筋”とは別のコラムでは大いに笑わされます。しかし海外に行くたびに酔っ払って空港やバス停で寝込んでしまうのには、もう絶句。大ごとにならなくて良かったですねえ。
名古屋大学で修士課程の天野浩さんと出会い、ついにサファイアの上に窒化ガリウムの薄膜結晶を生成することに成功します。当時としては発想外の“非常識な条件”下での生成でしたが、できたのもまた「誰も見たことがない」くらいきれいで透明な結晶でした。ところが日本ではこの業績は無視されます。「窒化ガリウムは“ダメ”な材料である」という“ドグマ”が学界に行き渡っていたのです。ところが国際会議では高い評価を。他人の判断を自分の思い込みとする人が、日本には多い、ということなのでしょうか? ともかく、ついに青色LEDの開発に成功。さらに窒化ガリウム系のレーザー発振にも成功。「誰に何を言われようともあきらめずに信じる道を進む」態度でとうとう「結果」を出したわけです。しかも“寄り道”したところで出会ったものもすべて“役に立つもの”にしてしまうのには驚き、素直に頭が下がります。
「お金のため」「自分のため」「家族のため」「社会のため」……いろいろな理由を挙げる人がいると思います。それはもう人それぞれ。ただ、私がちょっとわからないのが「家族のため」。それを言う人が「家族を持ってから就職した」のならわかります。だけど独身で就職してから結婚した人が「家族のため」と言うのは、だったら独身時代は“真空地帯”だったのでしょうか?
【ただいま読書中】『武士の奉公 本音と建て前 ──江戸時代の出世と処世術』高野信次 著、 吉川弘文館、2015年、1700円(税別)
自分の父のような才能ある者が封建制度の中でちっとも評価されず出世もしないことを見ていた福沢諭吉が「私の為めに門閥制度は親の敵で御座る」(福翁自伝)と書いたのは有名な話です。しかし著者は、岡山池田藩では一時は番頭(ばんがしら:家老に次ぐ家格)を努めて千五百石をもらっていた津田家が幕末にはせいぜい組頭で七百石になっている、つまり武士には人事によって昇降があることを知っています。すると、江戸時代に武士の人事は固定化されていた、というのは“固定観念”ではないでしょうか?(下がる人がいれば、その地位を埋めるために上がる人もいるわけですから)
「殿様」は「御為第一」を求めます。しかし武士には「自分の家」だけではなくて「私」があります。戦乱の世なら「御為」は「武勲」です。しかし太平の世では、なにが「御為」でしょうか? 江戸中期の尾張家には、家臣が「不義の利益(私利)を求めること」が苦々しく指摘された文書があります。
そういえば江戸時代は「武士道」の時代だったはずですね。でも「武士道」を強調しなければならない、なんらかの“事情”が当時はあったのかもしれません。
筑前黒田家では、奉公の時期(播磨時代からか筑前入封以後か)と戦功の有無で家格が決定されました。ただし黒田長政は「跡継ぎが「うつけ」なら、知行は没収」と明言しています。それは黒田家だけの話ではなかったようで、鹿児島藩の藩士の日記からは試験勉強に没頭する若者の姿が見えてきます。別の手紙からは、人間関係の重要さも見えてきます。特に「悪い噂」を立てられないようにすることが、非常に重要だと考える人がいます。
しかし「人事評価」は難しいものです。年功・家格・勤功・能力・人柄……様々なものが基準として用いられ、かえって公平性の点で“怪しさ”を生んでいました。それは現代社会でも同じですが。さらに、「性愛」での出世もあります。衆道や殿様に女性を斡旋する、などです。これは周囲の嫉妬をかいます。追従・へつらい・金、という手段もあります。著者は「そういった手段の是非ではなくて、そういった手段もまた“器量の内”とした武士たちの心を直視するべきだ」と述べています。
封建制度の中での「滅私奉公」は、日本人の理想像の一つです。しかしそれがどこまで現実的なものだったのか、そこに著者は疑問を提出しています。だってどの武士も「私」を持っているのですから(そもそもしっかりした「私」を持っていない者がきちんとした「奉公」ができるとも思えません)。しかも武士の本領発揮ができるはずの合戦が泰平の世にはありません。そこで武士たちは、いかに「私」を押さえながらお仕事をしていたのか。本書に登場する資料を読みながら私の想像は広がります。とても人間くさくて、江戸時代の人々がぐっと身近に感じられるようになる、そんな本です。
徒然草では「仁和寺の法師」は間抜けな行動をする人扱いです。
この前仕事で京都に行ったとき、たまたまホテルのすぐそばに嵐電の駅があってたまたま時間がぽっかり空いたので、嵐電で仁和寺に行ってみる気になりました。別に意味があるわけではありませんが「仁和寺の法師」は知っていても「仁和寺」に行ったことがなかったものですから。なんだかすごい人出で驚きました。人気の観光スポットだったんですか?
参拝をすませて傍らを見ると「御室桜が満開です」との看板が。「桜を見るために、500円?」と思いましたが、まあ話の種に、と思って入ってみたら、それはまあ見事なこと。これを見ずに帰っていたら、私が「仁和寺の法師」になるところでした。
【ただいま読書中】『革命の倫敦 ──ブックマン秘史1』ラヴィ・ティドハー 著、 小川隆 訳、 早川書房(ハヤカワ文庫SF1916)、2013年、1000円(税別)
霧のロンドン。空には飛行船、照明はガス灯。もちろん蒸気機関が大活躍しています。登場するのは、凄腕のアイリーン・アドラー警部、モリアティ首相、情報局の重鎮(とおぼしき)マイクロフト、スイスの滝つぼで発見されて以来ずっと意識不明のマイクロフトの弟……ここはシャーロック・ホームズの世界ですか? でも“役割”が違うぞ、と思っていると、イギリスの王族は蜥蜴族です。さらに火星探査機打ちあげ計画が。
ここは地球ですか? 時代はいつですか?
主人公の名前は「オーファン」。人を食った名前ですが、名前の通り両親はいません。居候を決め込んでいるのは書店。しかし、彼が行く先行く先で、本を「武器」として使うテロリスト、ブックマンが活動を始めます。そのため、オーファンの恋人ルーシーは殺されてしまいます。絶望の淵に沈むオーファン。しかしそこで「ルーシーを生き返らせる手段」がブックマンによって提示されます。ただしルーシーを取り戻すためには、ブックマンの言いなりにならなければなりません。オーファンは(チェスというゲームでの)「ポーン」になることにします。ゲームマスターの言うとおり動く、最低のコマです。ただしポーンも、前進を続けていけばいつか女王に“成る”ことも可能ではあるのですが。オーファンはジュール・ヴェルヌと「ノーチラス号」(という名前の帆船)で出港しますがすぐに海賊船に襲われ、海賊になる誓いを立て、そしてついに「謎の島」に上陸します。そこでオーファンが出会ったのは、自分自身の意外な出自でした。
「本」が本当に重要な役割を果たしています。単に「文字がぎっしり詰め込まれた物体」としてではなくて、もうちょっとダイナミックな「情報のアーカイブ」としての機能が本書では果たすものなのです。本当に「本」がそのようなものになったら、これは楽しい世界になりそうですが、おちおち本をのんびり読むことはできなくなるかもしれません。
「可哀想な人」はこの世にたくさんいます。中には「自分が可哀想であること」を“売り物”にしているたくましい人もいますが。
【ただいま読書中】『移動販売車がゆく ──買い物弱者を支える「にこやか号」奮闘記』宮下武久 著、 川辺書林、2014年、1400円(税別)
長野県の箕輪町。3トントラックが「ミニスーパー」として巡回をしています。運営しているのは町の運送会社𣳾成運輸。約束の時間にかつてのスーパーマーケットの駐車場にやって来たトラックは、停車すると荷台を拡張させ階段を降ろし「ミニ店舗」に変身します。面白いのは、運転手が店員を兼ねているのは当然として、仕入れもまたその人がやっていることです。特に水産品は名古屋の市場にわざわざ仕入れに行っています。
経済産業省の試算では「買い物弱者」は600万人だそうです。1000万人以上だ、という説もあるそうです。買い物弱者が問題とされるようになってから、すでに5年以上が経過しています。長野県でも対策をいろいろ立てていて、88事業が支援事業として紹介されています。
𣳾成運輸は、名前が示すとおり運送会社です。地元密着の会社ですが、リーマンショックで業績が悪化。そこで荷物を届けた帰りに地元の野菜を仕入れて自分で販売するのはどうか、というアイデアが出ます。これだったらトラックの空きがへらせるし収入が増やせます。それが上手くいったので社員は野菜栽培も始めてこれも好評だったそうです。もっとも本業が回復したし協力農家が増えたので自社農園は1年間だけだったそうですが。ただ、集まった農産物を上手く“商売”するために、飲食店の食品営業許可を取得して自分で五平餅を焼いて売ったりするのですから、この企業のカラーはなかなかユニークなもののようです。こうして「消費者との交流」が増えると「顧客の要望」を会社として把握することになります。そのため、魚介類の販売許可、移動販売許可、と会社の“幅”はどんどん広がっていきます。そして、町役場から「買い物弱者対策として移動販売を」という要請が。国には「買い物困難地域」への助成制度があることもわかります。町も補助金を出します。
かくして、「週6回」「町内49箇所」「専従者2名」で移動販売が始まります。
面白いのは、巡回先が「過疎地」とは限らないこと。町の中心部でもスーパーや商店などが撤退したために買い物弱者が取り残されている地域があるのです。最初からなければ、それを前提に生活を組み立てます。しかし、あった店がなくなった場合、その店をアテにしていた人たちはとっても困るのです。この場合「距離」と「(商品の)重さ」がネックとなります。仕事が忙しくて買い物ができない若い人も移動販売車に商品を買いに来ます。こういった人たちもまたやはり「買い物弱者」なのです。この場合ネックとなるのは「時間」です。
一口に「買い物弱者」と言っても、様々な要素があることが本書を読んでわかります。単純に「自分の物差し」をあてはめて「高齢だから」「車社会だから」などと買い物弱者を“判定”する態度を著者は戒めます。人には各人それぞれの事情があり、地域社会にもそれぞれの事情があるのです。
私が気になるのは「独占」です。競争がないと、値段やサービスのこともありますが、もし何かの突発事で一社が動けなくなったらその地域の流通は全滅してしまいます。だけど2社以上の体制だったら、いざという時にはお互いにバックアップとして機能させることも可能となります。ただ「買い物弱者が散在している地域」は売る方から見たら「利が薄い地域」なんですよねえ。これをどうバランスを取るべきか。コープデリもあるし、最近だったらコンビニ(ファミマのファミマ号とか、最近発表になったローソンと佐川急便の連携とか)も使えそうです。でもこういった“仕事”のグランドデザイン造りは民間業者よりもむしろ行政のお仕事になるのかもしれません。
本書は「たった一つの町の状況」の報告です。しかし、本書から「今の日本」が透けて見えます。おそらく、私が現在住んでいる町の将来の姿も、ここに描かれているのでしょう。
この前若い衆が大量に集まっているところに出くわしたのですが、皆さん同じ角度に首を傾けて手元を見つめていました。もちろん手にはスマホ。
で、ふっと思ったのです。あれで手に持っているのがスマホではなくて本だったら“大人”は何も言わないんだろうな、と。首の角度はたぶん似たようなものだと思うのですが。だったら、スマホで面白く読める“本”を開発したら良いのでは? 少なくとも“受け入れ態勢”はできていますよ。
【ただいま読書中】『素数はなぜ人を惹きつけるのか』竹内薫 著、 朝日新聞出版、2015年、720円(税別)
のっけから面白い記述が登場します。「有理数・無理数は“誤訳”で、本当は有比数・無比数とするべきだった」とか「素数はそれ以上分解できない数だから、もしかしたら元素のようにすべての数が素数の組み合わせによって表現できるのかもしれない」とか。
著者はガウスのファンなのかな、ガウスの天才ぶりをこれでもか、と何回も書いています。そもそも「コンパスと定規(目盛りなし)だけを用いて正17角形を作図する方法」を19歳で思いついて、それで言語学者ではなくて数学者になる気になった、なんて人ですからねえ。もし言語学に進んでいたら、人類はどんなプレゼントをもらっていたのだろう、とそちらも気にはなります。
そしてリーマンの「ゼータ関数」が登場。この辺から話はどんどん複雑怪奇になっていきます。ハーディー、リトルウッド、チューリングなどが登場し、とうとうダイソンが「素数のゼータ関数と、原子核のエネルギー準位を表す関数とがよく似ている」ことに気づきます。数学と物理学の幸福な結合です。本当は相対性理論もアインシュタインという「天才」がいなくても数学と物理学がきちんと出会っていたら19世紀に生まれていたはずなのだそうです。そして「超ひも理論」にもゼータ関数が関係してくれます。「素数の関数」がどうしてリアル宇宙に関係してくれます?
素数の入門書を読むと私はいつも不思議な気分になります。概念としての数学がどうして現実と密着しているのだろう、と。それと、本書では数学と物理学の共同作業が大きな効果を示したことが紹介されています。ならば他の「学」も「他の学」と一緒に作業をしてみたら、いろいろ面白いことが起きるのではないでしょうか。そこで必要なのは「いろんな専門家と話ができるコーディネーター」かな。