【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

経済vs.人命?

2020-12-16 07:12:48 | Weblog

 「経済を回すためには少々の国民が死んでもかまわない」vs.「命を守るためには少々の店が潰れてもかまわない」の対立構造になっているかのようですが、もうちょっと別の問題の立て方はできませんか? というか、それをするのが政治家の役割だと私は思うのですが、それは私の盛大な勘違い?

【ただいま読書中】『猟人日記抄』ツルゲーネフ 著、 工藤精一郎 訳、 未知谷、2012年、2000円(税別)
 目次:「ホーリとカリーヌイチ」「エルモライと粉屋の女房」「リゴフ」「ベージンの草原」「クラシーワヤ・メーチのカシヤン」「狼(ビリューク)」「あいびき」「生きたご遺体」「音がする!」「森と曠野」

 ロシアの豊かな(あるいは厳しい)自然の中で、せっせと鳥を撃っている「旦那」の物語です。自然と対比的に登場するのが、旦那と村人とのどうということもない、あるいは妙に深い会話の数々。そこから村人の生活も生き生きと伝わってきます。時代を超えた人情や生活の苦しさへの生活の知恵や、ささやかな庶民の楽しみなどが。
 本書の隠れた主人公は「農奴制」でしょう。村人の生活の苦しさの多くは「農奴制」によってもたらされたものですから。もちろんどんな制度で生きていても、そこに人びとはささやかな楽しみや喜びを見いだします。しかし「制度の片隅に楽しみや喜びが見いだせる」ことをもって「その制度」を全肯定することはできません。奴隷制の中でも人びとは楽しみや喜びを見つけて生きていましたが、「だから奴隷制は良いものだ」とは言えませんもの。
 そういった点で本書はロシア版『アンクル・トムの小屋』と言っても良さそうです。

 


どこに行く?

2020-12-15 07:02:22 | Weblog

 「GoTo」の行き先の一つに「Hell」もあるんですかね?

【ただいま読書中】『廃墟ディスカバリー』小林哲郎 写真、アスペクト、2008年、2200円(税別)

 廃工場、廃レストラン、閉山した鉱山、昔の診療所などの「廃墟」を集めた写真集です。どれも立派な「廃墟」です。画面は茶色が主体でひたすら暗く、空が晴天であってもなんだか薄暗い雰囲気です。どうせ廃墟なら、曇天の方がもっと似合います。
 世界的に有名な軍艦島もありますが、私は足尾銅山の写真をじっと見つめてしまいました。ここ、有名な名前なのに、私はその近くにも行ったことがないんですよね。
 変わり種は「魚雷発射試験場」。戦前の軍関係の建物は、残っていたらたしかに廃墟でしょうね。そういえば私も身近にそういった軍関係の建物の心当たりがあります。もう一つの変わり種は「廃バス」。路傍で朽ちていくバス……これ、探すとけっこうあちこちにあるんじゃないです?

 


2020-12-14 07:27:56 | Weblog

 「悪い虫がつく」とか「虫が知らせる」とか「疳の虫」とか日本語では言いますが、古代日本人は「人」と「虫」はどんな関係にあると思っていたんでしょうねえ。たぶん現代日本人の「寄生虫」とか「蚊などの虫が病気を媒介する」とかの概念とは根本的に違うものだったはずです。

【ただいま読書中】『歴史を変えた昆虫たち』J・L・クラウズリー=トンプソン 著、 小西正泰 訳、 思索社、1982年、2600円

 「歴史」を「昆虫」の切り口で見た本です。
 目次を見ると「蚤(腺ペスト)」「蚊(マラリア)」「ノミ、ダニ(発疹チフス)」「ツェツェバエ」と「病気」が並んでいますが、ちょっと意外なのは蝗・蜂・蚕なども取り上げられていること。たしかに蜜蜂がいなかったら現在の農業はエラいことになるし、蚕がいなかったら繊維業は大変ですね。
 病気の文献記録は、文明社会が前提となります。ところが皮肉なことに、文明によって人びとが社会活動をすることが、疾病の流行を助長します。欧州で信頼できる古い文献は古代ギリシアやローマ時代のものになります。早くも『イリアス』ではハエと腐敗が関係づけて述べられているそうです。ただ、古代の医学は(古代ローマでも古代中国でも)上流階級のためのもので、だから社会に広く流行する疫病には無力でした。
 古代社会で特に人が集中する場面は「戦争」です。不潔になりやすい環境に人が密集するから、「戦争」と「疫病」はつきものでした。それは古代に限りませんね。さらに軍団の移動で疫病は周囲にまき散らされます。さらに戦争が終わって兵士達が故郷に戻ると、そこで疫病はさらに広範囲にまき散らされることになります。しかし、それにことさら注目する政治家はいなかったようです。彼らにとって大切なのは「戦争の結果(戦争によって獲得できたもの)」だったのでしょう。だけど、病気によって戦争の勝敗が左右された例も、歴史上にはたくさんあります。
 黒死病に関しては、ノミが寄生するネズミが重要な役割を果たしていますが、ということは、病気と戦うためには、ペストと闘うよりもネズミが住みにくい住環境を構築した方が早い、ということになります。
 「集団ヒステリー」も本書では扱われています。これは「原因不明(実際には昆虫が病気の原因だけど、それが当時の人にはわかっていない)」のために多くの人がパニックになってしまった状態のことです。昆虫(が運ぶ病気)は人の心理にも影響を与えるのです。そして、トビバッタによってもたらされる飢饉も集団ヒステリーを引き起こします。
 ただ、人類の三大悲劇「悪疫」「飢餓」「戦争」のすべてを昆虫が“支援”しているからといって、昆虫を悪者にしてはいけないでしょうね。そもそもの原因は人間が引き起こしているのですから。

 


ご当地粉もの

2020-12-13 11:21:14 | Weblog

 ご当地グルメとかB級グルメにはけっこうな確率で「粉もの」がありますが、その「粉」が小麦粉なのだったら、せめてその土地は「小麦の名産地」であって欲しい、と私は望みます。もちろんその一皿に使われているすべての材料が「十里以内で収穫されたもの」であるべきとまでは主張しませんけれど、せめて「主役」くらいは「名物」であってほしいのです。

【ただいま読書中】『おきりこみと焼き饅頭 ──群馬の粉もの文化』横田雅博 著、 農山魚村文化協会、2018年、2500円(税別)

 「焼き餅」は各地で様々なものがそう呼ばれていますが、群馬では一般には「小麦粉を水でこねて丸め、焙烙の上や囲炉裏の灰の中で焼いたもの」を指すそうです。小麦粉ではなくて蕎麦・ヒエ・シコクビエ・トウモロコシ・粳米などの粉が単独あるいは小麦粉に混ぜて使われる場合もあるそうです。さらには小麦粉に残り飯を混ぜたり、葛粉やワラビ粉を混ぜて作る場合もあるそうです。こうなると同じ名前で呼ぶことがかえって不合理に思えますが、一々別の名前をつけるのも大変ですね。さらに「餡」(小豆餡や野菜の餡)が入ったものと入らないものがあります。長野では漬け物の餡や味噌とゴマだけを混ぜ合わせた餡もあるそうですし、群馬ではウルカ(鮎の内臓の塩漬け)の餡もあるそうです。
 著者はこの「焼き餅」のルーツを、鎌倉時代に中国から日本にもたらされた「饅頭」に求めています。これは餡に魚鳥獣肉や野菜などを用いた「肉饅頭」や「葉饅頭」で、それが禅僧によって精進に改められ、江戸時代に小豆の甘い餡を入れた「砂糖饅頭」となったものです。そして、失われたと思われていた「肉饅頭」や「葉饅頭」が日本各地に生き残っていたのではないか、と。
 ちなみに「饅頭」で「餡を別のものに包む」文化がもたらされ、それが最終的に「おにぎりに梅干しを入れる」などに引き継がれている、そうです。
 「焼き」があるのなら「ゆで饅頭」もあります。「ふかし饅頭」も。そこから「酒饅頭」にも話は広がります。
 おきりこみの説明を読んでいて、私は山梨のホウトウを連想しましたが、この系統の食品は山梨をはじめとして関東・中部地方に広く分布しているそうですが、基本的に小麦生産地と一致しているそうです。でっち上げのご当地グルメではなくて、地方の現実に根ざした日常食だからでしょう。そして著者は、おきりこみやホウトウを「うどん」のグループではなくて「水団(すいとん)」のグループに入れています。うどんとの相違は「生地に塩を入れない」「麺をゆででから汁に入れるのではなくて、麺を生のまま(打ち粉がついたまま)汁に入れて煮込む」。なるほど、最初から煮込むことが前提なので、生地に塩を入れないわけです。
 「ご当地グルメ」と言いますが、「ご当地」の食べものは基本的に日常食(ケの食事)です。だけど「グルメ」は観光客のためのハレの食事。「ご当地」+「グルメ」はなかなか難しい「計算式」なのかもしれません。

 


盲信と熱狂

2020-12-12 07:24:22 | Weblog

 トランプ大統領の「選挙で不正がおこなわれた」という主張を頭から信じている人たちが全米にいるそうです。そういった人たちの映像をテレビで見ると、私は「ユダヤ人によって我々の富が盗まれている」というヒトラーの主張を頭から信じて熱狂していたドイツ人のことを連想します。ただ、半分のアメリカ人にとって幸いだったのは、トランプがヒトラーほどには“上手”ではなかったことでしょう。それでも“信者”の数ならヒトラーを上回っているのが、SNS時代の怖さではありますが。

【ただいま読書中】『北朝鮮の漂着船 ──海からやってくる新たな脅威』荒木和博 著、 草思社、2018年、1600円(税別)

 本書の巻末に「北朝鮮からの漂着船」の一覧がありますが、船の数の多さだけではなくて、遺体の数がやたらと多いことに驚かされます。しかもこれは著者が確認できたものだけで、未確認のものを含めたら一体どのくらいの船が日本にやって来ているのか、ちょっと茫然としてしまいます。平成29年に漂着した遺体は70体。漂着せずに海に沈んだものを含めたら一体どのくらいの人が日本海で亡くなっているのでしょう? 著者が実際に見た漂着船の多くは、粗末な小型船(平底、スクリューはプラスチック製)でした。水密扉もなく、間仕切りをされた船室から隣の船室に動くには一度甲板に上がらなければならない構造です。長距離ミサイル・核開発・精巧な偽札を作れる国なのに、この漁船の粗末さはなんだ、と著者は驚きます。
 北朝鮮の動きは胡乱ですが、日本の警察の動きも変です。著者は「(警察発表は)自己弁護と問題の沈静化、責任逃れに終始している」と実感しているそうです。たしかに本書にある警察発表、日本語としてとっても変なんですよね。
 漂着船は、海上にあれば海上保安庁、浜につけば警察が担当するそうです。では遠浅で潮によって「海」だったり「陸」だったりする場合は? 処理するのも大変です。基本的に地方自治体が粗大ゴミとして処理するのですが、しっかりした砂浜で重機が使えても100万円。使えない場所だとコストはどんと跳ね上がります。
 漁業中の事故で漂着したのならまだわかりやすいのですが(それでも問題はいろいろあるのですが)、明らかに不審な「漂着船」も混じっています。日本の警察は「問題はない」と公式発表していますが、著者は「工作員の侵入」を疑っています、というか、ふつうは誰でも疑うでしょう。あ、問題にしたら警察が困るんだ。北朝鮮からの工作員が日常的に日本に侵入しています、ということになると、「それを防げ」と言うことになりますが、ナチスの「大西洋の壁」のようなもので日本の海岸線をすべて「防衛」するのはほとんど不可能ですから。しかしなすがままにしていると、拉致とか軍事的な意味だけではなくて、情報や防疫の点でも問題が生じます。
 北朝鮮に大きな問題があることはある程度わかっていましたが、日本も何か変な問題を抱えているようです。それも気になります。

 


ワクチン接種開始

2020-12-11 06:39:24 | Weblog

 新型コロナワクチン接種が開始されたら、マスコミがわっと群がっていますね。「接種が開始された」ことがビッグニュースだ、ということのようですが、大切なのは「どのくらい有効か」「副反応がどのくらいか」「行き渡るか」などではないです?
 ちなみに、副反応がゼロ、はあり得ないと私は考えています。で、それで死者や重篤な障害が出たらまたマスコミが大騒ぎをするのでしょうが、「コロナが広まってもいいからGoToは必要」と言っていた人たちは「副反応が出てもいいからワクチンは必要」と言わなければ、主張に整合性がないことになりません?

【ただいま読書中】『新薬の狩人たち ──成功率0.1%の探求』ドナルド・R・キルシュ/オギ・オーガス 著、 寺町朋子 訳、 早川書房、2018年、2000円(税別)

 イタリアアルプスのエッツ渓谷で氷漬けのミイラ状態で発見されたアイスマン(名前はエッツィ)は、腸に寄生する鞭虫に苦しめられていましたが、それに効く成分を含むカンバタケを携行していました。新石器時代にすでに「治療薬」が存在していた最古の証拠です。もちろん彼以前の人類も、試行錯誤によって様々な「薬」を発見していたはずです。
 ドラッグハンター(創薬プロジェクトに携わる人)の構想に会社の経営陣が資金を提供する確率は5%、その中でFDAに承認される医薬品につながるのは2%、つまりドラッグハンターの努力が結実するのは「0.1%」です。ちなみに新薬の開発費用は平均15億ドル、FDAの承認を得るまで一品目あたり14年だそうです。経営者が慎重になるのは当然ですね。
 この宇宙で「薬になる可能性のある化合物」の種類は、3×10の62乗だそうです。これを総当たりでスクリーニングするのは、大変な作業です。だから「新薬」がなかなか見つからないんだな。
 偶然出会った物質を片っ端から人体に試してみる試行錯誤が、少しでも科学的になったのは1847年。手術痲酔につかうエーテルに似た化合物でもっと良いものがあるかもしれない、と思いついた医師たちがクロロホルムを発見しました。もっとも試行錯誤のスクリーニング、という新薬探求の本質はそのままだったのですが。
 ドラッグハンターが最初にとり組んだのは「植物」でした。その時代の代表選手が16世紀のヴァレリウス・コルドゥス(ドイツ人)です。彼は該博な知識を持ち、新薬を発見するために異郷の僻地に調査旅行を敢行、まだ新しい学問である「化学」も取り入れました(彼の最大の業績は「エーテルの合成」と本書では述べられます)。これによって、単に「植物から薬を得る」から「合成をする」に新薬探索の場は移行していきます。
 化学合成を産業に最初に利用したのは、染料企業でした。特に19世紀ドイツには世界でトップクラスの研究者が揃っていて資本主義と科学が結合して合成化学が急成長します。そのトップを走っていたフリードリヒ・バイエル商会は染料の次の目標を医薬品とします。化学構造変換の候補として選ばれたのはサリチル酸とモルヒネ。どちらにもアセチル基を結合させて生まれたのが、アスピリンとヘロインです。ここでは「公式のアスピリン開発話」とは違う“裏話”が実に興味深く読めます。
 そして新薬開発は次のステージへ。19世紀、エールリヒは一部の染料が細胞の特定部分を染めて他の細胞は染めない現象に気づき、細胞には特定の染料が結合しやすい“標的”があると考えました。ならば特定の病原体を染める染料がその細胞に有毒だったら「薬」になるはずです。エールリヒはそれを「魔法の弾丸」と呼びました。新薬開発についに「人間の意図」が入ってきたのです。ただしその条件にかなう物質を探す過程はやはり「試行錯誤のスクリーニング」でしたが。さらにエールリヒは一つの物質で「魔法の弾丸」とするのではなくて、「標的に直行する染料」と「病原体を殺す(でも人体には安全な)毒物」とを結合させた「魔法の弾丸」を構想します。これだと選択の幅が大きく広がりますから。病気としては梅毒を選択し、九百種類以上の染料を合成してそれに砒素を結合させて片っ端から試し、ついに「606(6つめの化合物グループの6番目の染料)」が有効で安全であることを確認、これは「サルバルサン」と命名されました。人類が初めて得た「伝染病の原因に確実に効く薬」でした。エールリヒは突然“有名人”になりますが、彼を取り巻くどろどろした人間関係を見ると、ため息をつきたくなります。病原体と人間の関係の方が、よほどすっきりしているぞ、と。
 「病原体に有効な薬が開発できる」という事実は、「人類を救う」という崇高な目的から「金儲け」「有名になりたい」という下世話なものまで面倒を見てくれるものでした。新薬開発ラッシュがおき、その過程で“悲劇”も起きます。それも何度も何度も。そのたびにFDAは規制を強化しています。それでも新しい副作用による悲劇が繰り返されます。
 ペニシリンについて、「栄光の物語」ではなくて、フレミングが慎重で悲観的な人間だったことが描かれます。最初ペニシリンは「それほど有効ではない薬」と見なされていたのです。大規模な製造法はなく、適切な投与法や適切な量もわからない状態でごく少量をこわごわ(皮膚にすり込む方法で)使っていたのですから、患者の治りはとても悪かったのです。だから十年以上ペニシリンは注目されない存在でした。それを劇的に変えたのは二人の科学者なのですが、フレミングほどには有名ではないですね。ともかくペニシリン以後に新薬を求める科学者は「土壌」をあさるようになりました。著者も新薬を求めて泥土をあさって回った過去を持っています。
 「新薬の誕生」は、紆余曲折の物語です。いろんなところに行き止まりや落とし穴が仕掛けてあって、ドラッグハンターは真っ直ぐに成功に突き進むことができません。本書に登場する人たちは、成功者であってもけっこうかわいそうな目に遭っています。まして成功できなかった人がどんな目に遭ったかは、頑張って想像する必要もないでしょう。この苦労を見ていたら、「薬を作るなら、ジェネリック薬を製造している方がよほど楽」と言えますね。成功者の形だけ真似していれば良いのですから。そんな人生が面白いかどうかは、不明ですが。

 


公正な競争

2020-12-09 17:51:00 | Weblog

 競争には公正が必須です。なぜなら、不公正な競争は、国内では腐敗を、国外では戦争を容易に惹起するからです。

【ただいま読書中】『テレビの黄金時代』小林信彦 著、 文藝春秋、2002年、1857円(税別)

 1953年(昭和28年)日本でテレビ放送が始まりました。しかし本書は、著者に日本テレビから仕事の依頼が入った1960年から始まります。
 1960年! 我が家に白黒テレビがやって来た年です。酔っ払った親父が「誕生日になんでも買ってやる」と私に言って私が「じゃあケーキ」と言いかけたところでお袋が後ろから「テレビが欲しいと言いなさい」と囁いて、「じゃあケー……テレビが欲しい」と私が言ったことでそれが実現しました。当時私にとって「テレビ」は「お隣で見せてもらうもの」でした。それが我が家の茶の間に置くものになるとは「想定外」だったのです(ちなみに電話も当時の我が家では「お隣で借りるもの」でした)。
 この年テレビ受信者は500万を突破、カラー放送も実験的に始まっていました。ちなみに1960年7月に初めて発売されたカラーテレビは17インチで42万円。公務員の初任給が10800円の時代です。
 さあ、ここから、怒濤の勢いで「懐かしい名前(ドラマ、俳優、歌手など)」がどどどどーっと登場します。当時著者は大学を卒業したばかりの頃で、珍しいものすべてを吸収していたのかもしれませんが、その記憶か記録かの厚みには驚かされます。ついでに「ドラマに登場するアメリカの大型冷蔵庫や新車に驚いたのは、田舎の人間だけだろう(当時既に東京や横浜ではそういったものを日本人は目にしていた)」とか「街頭テレビはプロレスか野球のファンだけのもの」とか、ありきたりの“言い伝え”に頼らず自分の頭で判断をする態度が印象的です。
 できたばかりの「ヒッチコック・マガジン」の編集長を押しつけられ、取材に出かけたニッポン放送で出会ったのが無名時代の前田武彦と永六輔。おやおやおやおや。
 テレビ創生期の番組では「光子の窓」を著者は最重要視しています。それも「作る側」からの視線で。面白いのは、「制作側の人間」が平気で出演もしていること。まだ分業体制がきちんと確立していなかったからでしょう。さすが創生期です。
 「シャボン玉ホリデー」の視聴率は、1961年10月に跳ね上がりました。理由は、クレイジー・キャッツの「スーダラ節」。以後、植木等の新曲をいち早く聞きたかったら「シャボン玉ホリデー」を見るに限る、ということになり、視聴率はさらに上がります。著者はこの頃から「日本のテレビの黄金期」が始まる、と見ています。日曜の夕方6時から「てなもんや三度笠」を見てからチャンネルを変えてこんどは「シャボン玉ホリデー」……ああ、記憶があります。子供の私はてなもんやの次は夕ご飯でしたが。
 私のような視聴者にとって「テレビ番組」は「生活と共にあるもの」です。番組を思い出すと、その時の家庭内の景色も一緒に脳裏に蘇ります。そして、著者のように「作る側」の人間にとってもテレビ番組は生活と共にありました。結婚、職業選択(放送作家を続けるか、小説に専念するか、など)、収入の多寡、人脈など、つまりは著者の人生そのものが「黄金期の番組」にからめて語られます。本書は、「日本のテレビの黄金期」についての記録であると同時に、著者の半生記でもあります。
 私個人の“歴史”と特に共鳴したのは「帰ってきたヨッパライ」「コント55号」「ドリフターズ」が扱われた章でした。俗に言う「年がばれる」というやつですね。そして最後に著者が述べる「危惧」。テレビと社会にどんな未来があるのか、そこをきちんと考えているテレビ人がどのくらいいるのか、それはテレビを見ていたらわかるのでしょうね。私は最近はあまりテレビを真剣に見ていませんが。

 


冬の雲

2020-12-08 07:22:18 | Weblog

 他の季節に比べてどうして冬の雲はあんなに暗いのだろう、と思うことがあります。分厚いからか、と最初は思いましたが、冬は夏より上昇気流は元気がないはずだから厚みはそこまでできないはず。すると、温度の差? 寒さで雲の中の水滴が凍りついて氷の粒になっていると、光が乱反射で地面に降りてきにくくなって、それで結果として雲の色が暗くなっているのかな?

【ただいま読書中】『イシュマエル ──ヒトに、まだ希望はあるか』ダニエル・クイン 著、 小林加奈子 訳、 VOICE、1994年、1796円(税別)

 「世界を救う真摯な望みを抱く者」を募集する「教師」の新聞広告に心引かれて面談に出かけた「僕」は、そこでイシュマエルという名前のゴリラに出会います。イシュマエルは、広告の通り「教師」で、「僕」にこの世界の「物語」について語ります。
 今から数百万年前「残す者」とイシュマエルが呼ぶ人びとの集団が一つの物語を始めました。そして今から1万〜1万2千年前に「取る者」が別の物語を始めました。
 つまりは、地球から奪って消費するだけの「文明人の文化」と、未来に持続可能な「未開人の文化」です。
 イシュマエルは「この世界には神話が充満している」と指摘します。「この世界は人類のために作られた」という創造神話です(創造したのが宗教的な神か科学的なビッグバンかは関係ありません。「人類のため」というのが“神話”のキモです)。そして「人類のための世界」ですから、人類の使命は世界の征服です。征服しなければ世界の支配や統治ができませんから。そして「世界の征服」によって世界は「人類の楽園」になるはずでした。しかし……
 出来の悪い生徒(「僕」ではなくて、本書を読んでいる私のことです)に対してイシュマエルは実に辛抱強く、ヒントを出し続け、なるべく生徒が自分で結論を導き出せるように指導してくれます。
 「取る者」にとって、現在の地球環境は明らかに「楽園」とはほど遠いものになっています。ではどうするか。「さらなる征服」です。もともと「征服」は「自分にとって不都合な世界を自分にとっての楽園にするための行為」でした。そして現在の地球が「自分にとって不都合な世界」だったらそれを「楽園」にするためには「征服」しかない、というわけです。自分たちが世界を台無しにしたのに、その「台無しにした世界」を救うために同じ方法を貫こうとしているのです。
 そう言えば世界各地で「温暖化対策」として「新たなイノベーション」が盛んに唱えられています。つまりは「新たな征服の手段探し」です。
 「悲しい物語だと思わんかね?」とイシュマエルは問います。「はい」と私は答えます。同時に「イシュマエル」はキリスト教徒(とユダヤ教徒とイスラム教徒)を完全に敵に回しているな、とも思います。しかし、旧訳聖書の「創世記」第四章(カインとアベルの物語)の新解釈に、私は唖然としました。これは仰天です。
 そしてさらに仰天。先日読んだばかりの『敗者の生命史38億年』(稲垣栄洋)には「今のスタイルがベストであるとすれば、変化しないことが最高の進化になる」という言葉がありましたが、今の人類がまさにその「自分を最高の生物と考え、自らの進化を拒絶している」存在である、とイシュマエルが指摘をしたのです。
 そして、最後のメッセージ。「ヒトが行ったのち ゴリラに 希望はあるか?」と「ゴリラが行ったのち ヒトに 希望はあるか?」。重いメッセージです。重い思いです。

 


ペニス切断

2020-12-07 07:17:04 | Weblog

 世界的には宮刑とか宦官とかの「制度」がありますが、日本だと「制度」ではなくて阿部定とか最近だったら『聖痕』(筒井康隆)とか「犯罪」のにおいがする言葉です。実は「男→女」の性転換手術、という「医療」もあるのですが、そのことについては日本ではあまり意識されていませんね。

【ただいま読書中】『ペニスカッター ──性同一性障害を救った医師の物語』和田浩司・深町公美子 著、 方丈社、2019年、1400円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4908925445/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4908925445&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=f992a9d89dcc003a51b44906335ce986
 和田浩司は、医者になってバリバリ手術修業をしていましたが、「治す側の視点」ではなくて「治される側の視点」で医学を見つめていました。そのため、「外見の修復」を専門とする形成外科を志しますが、20世紀の日本ではまだ形成外科の技術は「美しさ」の点で不満が残るレベルでした。そのため和田医師は美容整形の方向にシフトします。形成外科と美容整形を併せて10年経験した後、大阪で雇われ院長として開業。大阪でたまたま入った「冗談酒場」がニューハーフショーパブだったことで、和田医師の運命が定まります。馴染みになった人たちに、はじめは“普通の整形手術”、それから除睾術(睾丸摘出の手術)を頼まれるようになったのです。
 この頃の日本ではまだ「性同一性障害」は「日本語」にはなっていませんでした。「ニューハーフ」「おかま」が蔑称として堂々と使われている世界で、和田医師は“日陰者”のための“闇手術をする医者”となったのです。ところでこの人は医者として非常に腕が良かったため、“その世界”では「有名人」になってしまいます。ただし「日本」では性同一性障害については無知あるいは見て見ぬふりをするのがスタンダードでしたから「日本で一番無名の有名人」という存在でした。
 「男性から女性への性転換手術」と言うとつい「乳房」「性器(陰茎切除と造膣)」のことを思いますが、女性化顔面手術(顔面の骨切り手術)もあるので、美容整形手術の経験がとても役立ったそうです。というか、外科的なテクニックが相当上手くないと、きちんとした手術はできないでしょう。そして、手術を受けるニューハーフの人たちにとって、「変な人」としてしか自分たちを扱ってくれない人たちの中で、「普通の患者」として自分たちに接してくれる和田医師は「神様」だったそうです。さらに、雇われバイトだった和田医師が開業を決心した理由の一つが「もっと安い料金設定にしたい」だったのですから、それは需要を喚起するでしょう。1996年に大阪に「わだ形成クリニック」を開業したとき、開院した時点で既に予約が殺到満杯状態だったそうです。そして、宣伝を一切しなくてもその満杯状態はずっと持続していました。
 何しろ“闇手術”で先人もほとんどいない状態、和田医師は自分で手術のやり方や使う器具についても開発する必要がありました。それが後に「和田式」と呼ばれるようになる手術へと発展していきます。
 繁盛は良いことなのですが、脅迫や恐喝も増えました。基本的には金目当てなのですが、誤解と偏見に基づいている点がやっかいです。さらに、手術の件数が増えれば、事故が発生する確率も増えます。ここでも「ニューハーフだから」と“捨てて”いた家族が、「金になる」と賠償金目当てに和田クリニックに群がってきました。それらに対して和田医師は、払うべき賠償は払う、(他の患者と治療関係を守るために)沈黙は守る、を貫きます。そんな中、埼玉医科大学が「条件付きで性転換手術を認める」と発表、マスコミはそれを大きく取り上げ(私も新聞記事になったことを覚えています)、それ以後脅迫電話はかかってこなくなったそうです。そのかわりのように「一般の人(「ニューハーフ」としてパブやキャバレーで働いていない人)からの相談」が増えます。発散もカミングアウトもできず、“一般社会”の中でひっそりと生きている性同一性障害の人は、とてつもなく多かったのです。
 そして2002年に2件の医療事故。これで警察が動きます。といっても、事故直後の取り調べからずっと放置しておいて2年も経ってから「改めて詳しい事情聴取を」と。これって、2年経って記憶が薄れてきた頃を狙っていません? こうしたら記憶力によって証言の食い違いが出やすくなるから「証言が食い違うと言うことは、誰かが何かを隠している」と主張しやすくなる、とか? そういえば「前置胎盤での妊婦の死亡」という「医療事故」を「未熟な医者がミスをしたに違いない」と警察が決めつけて「事故(病死)ではなくて殺人事件だ」と産科医を逮捕したのもこの頃でしたっけ。そして、報道陣は殺到して、メディアスクラム(ハラスメント)全開となります。本書に紹介された記事、私の記憶、私が調べた範囲の記事で「実際にどのような手術がおこなわれたか」「性同一性障害の人がこの社会でどのように扱われているか」などについてきちんと報道したものは、皆無と言って良いでしょう。そしてその状況は、実は現在でもそれほど変わっていない(性同一性障害者に対する差別は継続されている)のでは? 結局司法は、「事件」を引っ張るだけ引っ張ってマスメディアに儲けさせてから「刑事事件としては立件できなかった」としぶしぶ認めました。そして和田医師の急死(自死かどうかについては本書にはありませんが、その雰囲気が漂う文章です)。彼は日本社会に“消費”され尽くしてしまったのでしょうか。その後には「和田式」という手術だけが残されています。

 


砂上の楼閣

2020-12-05 06:57:42 | Weblog

 「砂」と言うと「砂漠」「砂浜」を思い出しますが、実は都会もまた「砂」の塊です。コンクリートは砂と砂利とセメントですし、ガラスの原料は砂です。コンピューターやスマートフォンなどに使われているシリコンチップも砂からできています。砂がなければ、私たちの文明はばらばらになってしまうのです。

【ただいま読書中】『砂と人類 ──いかにして砂が文明を変容させたか』ヴィンス・バイザー 著、 藤崎百合 訳、 草思社、2020年、2400円(税別)

 人類は砂を大量消費しています。毎年500億トンの砂と砂利を消費していると推定されています。砂漠の砂は風によって丸くなっているため結合力が弱くて建築資材には向かないので、たとえばドバイでは建築用の砂をオーストラリアから輸入しています。
 「砂」の定義は、地質学的基準の「ウッデンおよびウェントワースの区分法」では「直径が0.0625〜2mmのばらばらの粒状になっている固い物質」となっています。つまり、もとが石だろうが貝殻やサンゴだろうが溶岩だろうがお構いなしなのです。
 世界中の砂粒の70%は石英(シリカ)です。これは非常に寿命が長く、他の鉱物ならすぐにもっと小さくなるところを、砂粒の形で生き続けます。山から浸食されて川で流されて、堆積・埋没・隆起・浸食のサイクルを平均2億年で繰り返しているそうです。
 大量消費をするためには大量供給が必要です。ところが資源には限りがあります。そこでおこなわれるのが違法採掘。そしてブラックマーケットの成立。“マフィア”は砂を手に入れるためなら、賄賂・脅迫・殺人、なんでもやります。麻薬でも武器でも砂でも、“マフィア”がやることは同じです。
 「セメント」は、粘土と石灰石などを砕き焼きさらに砕いて灰色の粉末にして作られます。セメントに水を混ぜるとペースト状になり、やがて硬化します。ペースト段階で砂を加えるとモルタルになり、レンガを固定する目地材として使えます。セメント10%に水15%、骨材(砂と砂利)75%を混ぜると「コンクリート」となります。古代ローマ人がコンクリートを使っていたことは有名ですが、古代マヤ人も素朴な「コンクリート」を建築資材として用いていました。ヨーロッパでは18世紀にセメントが再登場し「ローマンセメント」と呼ばれました。コンクリートは圧縮強度はとても大きいのですが、引っ張り強度が小さくてひび割れやすい欠点があります。それを補うためにコンクリートの“内骨格”として鉄骨を用いるようになったのが19世紀。“新奇な材料”に対する世間の抵抗感は強かったのですが、1906年のサンフランシスコ地震で地震後の火災で市街は炎になめ尽くされたのにコンクリート造りの倉庫が焼け残っていたことを、コンクリート業界は絶好のビジネスチャンスと捉え、大宣伝をおこないました(そういえば、阪神淡路大震災のあと、某ハウスメーカーは「隣の家が崩れているのに自分のところの家はびくともしていない写真」を宣伝に使っていましたっけ)。
 アスファルトにも砂は用いられ、コンクリート舗装とアスファルト舗装によるモータリゼーションは、文明を変えます。
 ガラス、埋め立て、シリコンチップ、石油掘削など、砂によって私たちの文明は支えられています。しかし砂もまた「有限の資源」であることを私たちは忘れがちです。そして、もしも容易に使える砂を使い尽くしてしまったとき、この文明はどうなってしまうのでしょう? ちょっと心配はしておいた方が良さそうです。