瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

ダイビングの夢

2006年11月26日 | 夢日記
この数週間の間に立て続けに何人かの同僚の夢を見た。Aさん、Bさん、Cさん、Dさんの4人。いずれもその人との、日常意識しているよりは深層の関係を示唆するような内容だった。

たとえばBさんが登場する夢では、Bさんが自転車のサドルに乗り、私が荷台に座ってハンドルに手を伸ばして自転車をこいでいた。ちょうと子供を乗せるようにして。Bさんは少し恐がっていたが、坂道をスピードをつけて下っていった。ちょっとした冒険心が刺激されて楽しかった。ふだんそれほど親しくないBさんなのに不思議だった。

先週ごろにDさんの夢を見た。Dさんに誘導されてダイビングした。深いプールのようなところだったかも知れない。練習もなくいきなりだたので不安だったが、スーッともぐっていった。急に少し苦しく不安になって、横の脱出溝から脱出し、ほっとした。

今朝ほどまたDさんの登場する夢を見た。私が本を読んでいると、Dさんも参加して読書会をしたいと申し出があった。私が読んでいたのは哲学通史の本だったので、Dさんと読むにはふさわしくないと思った。Dさんには心理学の本がよいのではないかと思い、いろいろ探して迷っているうちに夢から醒めた。

Dさんとのダイビングの夢は、彼との関係で私が自分の心の深層の何かしらに気づく可能性があることを示唆しているのだろうか。
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「怒りと恐怖」の夢・再び

2006年10月02日 | 夢日記
◆昨日、『グレース&グリッド』ケン・ウィルバー(春秋社)について、この日記に書いた文章を読み直していた。今年5月23日付けの日記に、自分で次のような引用をしているのを読んで、驚いた。

『‥‥自我という分離した自己感覚は、認識によって構成されたものというだけではなく、感情的なものでもあるということ。自我は、概念によってのみではなく、感情によっても支えられているということだ。またこの教え(『奇跡のコース』)によれば、自我の主要な感情は、怒りを伴う恐れでもある。
 ‥‥本来つぎめなのい意識を、主体と客体に、自己と他者に引き裂くときはいつも、その自己は恐怖を覚えるということだ。理由は単純。今やあまりに多くの「他者」がいて、それがみな危害を加える可能性ともっているからだ。‥‥この恐怖から怒りが生じてくる。』

ここにも「怒りと恐怖」という語句が出てくることはすっかり忘れていた。最近の私の夢は、「怒りと恐怖」がテーマになっていることが多いことは、何回か触れた通りだ。

◆この文章がきっかけとなってか、明け方また「怒りと恐怖」の夢をみた。

子どもの頃、家の裏庭の向こうは、東京にはめずらしく古いわら葺屋根の家であった。夢の中で、その家の妻らしき人が、ひどい怒りの声をあげている。人の心にぐさりと来るようなやりきれない怒り声だった。それが延々と続く。夫も家族もこれではやりきれないだろうなと思う。

その怒りの主がもし私の家にまで侵入してきたらと想像しただけでも恐怖が走った。私は、恐怖にかられ必死で裏木戸のカギを閉めようとした。しかしカギがなかなか閉まらない。何とカギが反対側、つまり外側についているのだ。板の隙間から手を伸ばして閉めようとするのだが、思うように閉まらない。その焦りと恐怖の中で目覚めた。

かなり強い恐怖の体験だった。夢の余韻の中で恐怖と怒りを同時に感じていたようだ。恐怖に怒っている自分を感じていた。恐怖の中で孤独だった。

前回の夢では、怒っていたのは私の「影」であったが、今回は私の「アニマ」が怒っていたのか。それにしても裏木戸のカギが外側についていたとは。つまり、意識の場に侵入してくる怒りを、もはや自分では抑えることが出来ないということか。

しかし、私にとっては抑圧されていた怒りが噴出してくることは、喜ばしいことだ。それを「自我」がどれほど恐怖しようとも。
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恐れと怒り

2006年09月08日 | 夢日記
グリーンヒル瞑想合宿レポートの続きを期待して訪問してくださる方も多いと思う。今回は、前回以上にゆっくりのペースになる感じだが、日々の日記を間にはさみながら、自分にとって負担にならない程度のスピードで進んで行きたい。ご了承を。

◆恐れと怒り
恐れと怒りが、最近の私の深いレベルでのテーマになりつつあるようだ。このテーマに関する夢が多くなっている。

9月5日だったかに見た夢。古い屋敷のような料亭での宴会に出席していた。その宴席に疎外感を感じていた私は、一人で表に出た。その屋敷は町のはずれにあったが、町の中心部でやっている祭りを見物に行こうかと思った。しかし、その方面からぞろぞろと人が帰って来るので、もう祭りは終わったのだなと思った。

屋敷の門からかなり離れたところに人影があり、私に向かって叫んでいる。「お前は、怒っているのになぜ、怒っていると言わないのだ」、そう言って私の方へものすごい勢いで向かってくる。私は、真に恐怖に囚われた。とにかく怖かった。「怒っています」と認めれば、それを言いがかりにして殴りかかられそうだった。「怒ってはいない、全然怒っていない」と叫びながら、必死になって、宴会場の屋敷に逃げ込んだ。

目覚めたとき、心の底から怯えていた余韻がはっきりと残っていた。そうか、私は自分のこの小心さ、臆病さ、それゆえの恐怖心を怒っているのだなと思った。その怒りを抑圧しつつ外部に投影している。とくに父の特定の行為に。この夢が印象的だったのは、いつもは抑圧している心底からの恐怖心を夢の中で逃げながら実感したからだった。

しかし、昨日だったかに、全く気にもとめていかなった夢の中の言葉が気になった。

「お前は、怒っているのになぜ、怒っていると言わないのだ」
「怒ってはいない、全然怒っていない」

このやりとりは、まさに抑圧した怒りとその否認をストレートに表しているではないか。しかも人影(影=ユングのいうシャドウ)が、そう語っている。私は、怒りを抑圧し、それを認めていない。抑圧された怒りという影そのものが、怒って私に攻撃をしかけてきた。

あと時感じた恐怖は、私の小心さを表すと同時に、自分の怒りに直面することの恐怖をも表していたようだ。

この夢は明らかに、合宿直前に見た「2006/08/08 (火) 怒りと恐怖の夢」に呼応しいる。
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怒りと恐怖の夢

2006年08月08日 | 夢日記
久しぶりに印象深い夢を見た。もしかしたら昨日読んでいたクリシュナムルティの本がどこかで影響していたかも知れない。本のタイトルは「Beyond Violence」だったが、昨日読んでいたところは恐怖について語っているところだった。夢とは直接関係ないかもしれないが、恐怖についてのクリシュナムルティの言葉とは、たとえばこんなものだ。

「心が恐怖から完全に自由にならないかぎり、あらゆる形の行為は、より多くの害、より多くの惨めさ、より多くの混乱をもたらす。」
「しかし、心を恐怖から完全に自由にするのは、明日ではなくて「いま」、それを全体として理解することである。」

夢の内容はこうだった。家の玄関の内側、2階への階段の下のあたりに大きなノラ猫が座っていた。父が可哀想に思い、招き入れたものらしい。犬みたいな大きな猫だった。よく見るとその隣に同じようにノラ犬が座っていた。これも父が入れたのだ。猫を3匹飼っていて(現実に飼っている)、ただでさえ大変なのにノラ猫やノラ犬まで、と私は怒りにかられた。「こんなことをしないでよ」と大きな声で怒鳴ると、私の怒りに気おされたかのように、二匹のノラは家から出て行った。

その時、息子が二階から降りてきてトイレに入ろうとしていた。見ると、足を引きずり、手のひらが胸のあたりで揺れていた。息子は脳梗塞だったのだ(現実ではまったく健康だが)。にもかかわらず息子は、けなげにアルバイトに通い続けていた。私は、度肝を抜かれていた。アルバイト先でいろいろ言われているのではないかと思うと、胸に苦痛が走った。

そんなところで目が覚めた。夢の中には暴力的な怒りと強い恐怖があった。二つはバラバラのようでいて一体だった。怒りにかられていたその時に、自分のこどもが脳梗塞で惨めな人生を強いられようとしている現実に直面する。現実には、84歳になる父が軽い脳梗塞で、手足に若干の麻痺があるのだが。

恐怖は、病気などで人生がいつどうなるか分からないという事実に対する恐怖であった。もっと根源的には死への恐怖、いのちが自分の意志を超えて、いつでも惨めに歪められたり、消されてしまいうるということへの恐怖だった。そして私は、そのことに怒っているのだ。私は、自分の根深い怒りがあることを自覚しているが、それはやはりいのちが持っているどうしようもない不安定さ、はかなさに対する怒りに源を発しているように思えた。あるいは、生きるということの根源的な不安定さに対して完全に無力である自分に怒っているように思える。その怒りが父に対して投影されている。夢で、猫とイヌを家に招き入れた父に怒りが向けられているのはそのためだ。

昨日、本棚にあった表紙の日焼けした200頁にもならない薄いクリシュナムルティの本を読む気になったのは、私の中の何かがしむけたのだろうか。
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うれしい夢

2006年06月03日 | 夢日記
昨日の起きがけに見た夢は、不思議とうれしい夢だった。降りた駅から職場に向かって歩いているとき、いつもはラベリングによるサティの時間なのだが、この時は夢のことで思考が多かった。

奇妙な夢だった。○○電鉄の社長が私に、今の仕事を止めてうちの会社の、あるプロジェクトのチーフとして来てくれないかと誘ってきた。(○○電鉄は、父が長年勤めていた会社である。)そのプロジェクトというのは、その会社の本社の汚れたトイレを美化するというものらしい。夢の中で私は、トイレの美化というプロジェクトを少しも奇妙にも思っていなかったし、むしろ自分を評価してくれ、そういう誘いを受けたことをとても光栄に思っていた。しかし現在の職場での責任もあるから、迷った。

社長は、「もうひとり君の同僚も同じプロジェクトのため引き抜きたい」と提案した。彼とは、どこかのパーティーで出会い、そのスピーチに感銘を受けたという。私は、その提案もうれしく聞いた。彼に話すと、やはり迷ってはいたが、しかし今の仕事の継続性が大切だからと、断る意向を示した。

この夢がうれしかったのは、評価され「俺のところへ来ないか」と誘われたこと以上に、同僚が一緒に誘われたということだった。その同僚というのは、私にとっては苦手なタイプなのだが、最近、その態度の節々で「上司」としての私をそれなりに認めていることが感じられ、うれしかった。私の方も、彼を非常に評価する気持ちが出ていた。

そういう現実がこの夢に反映されているのだろうが、このような夢になって出てくるほど、というのが驚きだった。また誘われた会社が父が長年勤めた会社であるというのは、とても意外であり、不思議だ。もちろんトイレ掃除のプロジェクトというのも奇妙なのだが。これは何かしら「浄化」ということに関係するのだろうか。

かつて、現実には私を評価していない友人と、打ち解け合う夢を見た。その時以来、その友人の私に対する態度ががらりとよい方向に変わった。その時の夢を思い出した。こちらの夢は、現実においてはまだ気づいていない変化を夢で先に見たので印象的だった。昨日の夢は、すでに気づいている現実に関係するが、強い共通性のあるうれしい夢だった。

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