瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

白鶴:夢から現実へ

2006年03月25日 | 夢日記
このダイアリーの中で夢を記したものを振り返って見た。ここに記した夢が連続して3回、心理療法に何かしらかかわっているのが、興味深かった。「心理療法」は、心の変化の象徴だろうか。(カテゴリー『夢日記』参照)

また、去年の12月14日に見た僧=白鶴の夢、さらに遡れば去年の夏の瞑想合宿以来の流れが、今ますます現実になりつつあるようだ。来年度から気の抜けない責任の重い立場で仕事をしていくことになった。すでにその準備でかなり忙しい。

まさに、現実の中でエゴを超えた行為に集中するという「白鶴」の修行を強いられることになったようだ。それは、私が心の奥深くで求めていたことかもしれない。それが、きわめて明確な形で現実になってきたのだ。

ちなみに、白鶴の夢を見た翌日に書いた文を再録しておく。

『そう思ったとき、しかし私は、自分がどこかで白鶴=僧の生き方に引かれているのを感じた。自分の中のどこかが共感、ないし共鳴していた。僧の生き方とは、何も山にこもって修行することではなく、生き方の純粋さを示していると感じた。ごまかしのない生き方。今、自分がなすべきことに、結果に執着せずに全力を尽くすこと。それが本当の意味での僧の生き方であり、自分の心のなかのある部分が、そういう生き方に深く共鳴しているのだ。

僧とは、いわゆる「出家」ではない。俗世のなかで、俗世の営みのなかで自分の修行の姿勢を貫き通すことこそが、夢の中での「僧」の意味することだったのだ。では、白鶴が飛んで行くとはどういうことか。それは、このような生き方を純粋に守り貫いていこうとする姿勢の徹底を示しているようだ。』
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悟りを得ようとするエゴ

2006年03月25日 | 夢日記
最近すっかり日記への書き込みが少なくなっている。仕事が忙しく充実している。その分、帰宅後に書き込みをするだけの気力がないというのも事実だ。一方で書き込みすることへの意欲そのものが落ちているかも知れない。

今朝方、夢を見た。またまた心理療法家が出てくる夢だ。前後ははっきり覚えていない。心理療法家(男性)が、私の胸倉をつかんで押さえ込むようにしながら、「その悟りを得ようとする意欲がいやらしい」と攻めるのだ。

私は、なるほどと納得している。攻撃されても苦痛は感じていない。全体としての自分が心理療法家に充分に受容されていることを感じているからだ。悟りを得ようとするエゴのいやらしさを攻撃され、自分でもそれをどこかで感じていた。そのエゴがより鮮明になったという感じだった。

この日記を書き続けることに含まれているエゴも、同時に攻撃されていたような気がする。この夢は、私の中での、書き込みへの意欲の低下とどこかでつながっているのかも知れない。
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夢、茶目っ気と小心

2006年02月27日 | 夢日記
今月の11日か12日に見て、ずっと気になっていた夢がある。

私は、4人ほどのメンバーとともに、ある心理療法家に研修を受けていた。その日、4人のうち一人の男性が来なかった。「彼は来ないけど、何もせずに待っていないで研修を始めましょう」と私が提案した。私が、彼の役になって心理療法のロールプレーイングをしてもよいと申し出た。私がクライエント役で彼を演じ、他の誰かが療法家役をやって、体験的な学習をするわけだ。

私は、彼になりきって彼の悩みを語った。かなりうまく出来たと思った。指導者である心理療法家は、それを見て「なるほど彼の悩みはよく出ていたが、実際の彼はもっと明るさと茶目っ気があるよ」と言った。私は、なるほどそうかも知れないと思った。

そこで目覚めたのだが、目覚めたとき、私がその役をやった彼が、現実には非常に小心な男であることを思い出した。

この夢が面白いのは、夢には実際には出てこない男の役を私が夢の中で演じている、ということである。私が演じた彼は、私のシャドウ(影)であろう。私の中の抑圧された一面である。私は、夢の中でその男を演じようとして演じきっていなかったのだ。つまり、私は、私の中の明るくて茶目っ気のある部分と、小心な部分とを演じていなかたったのである。この二面を自覚的に生きよというのが夢のメッセージであろう。

あの夢以来、私は自分の中の茶目っ気の部分を半ば意識的に出そうとしているし、実際に出ているようだ。また自分の中の小心なところを素直に認めていこうと思った。
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夢、そして回帰

2006年01月14日 | 夢日記
このブログの方で「夢日記」というカテゴリーを作り、夢を記した日記をそこにまとめた。さるさる日記の方はそういう機能はないが、そのかわり日記内部の検索ができる。ブログもいいがさるさる日記のシンプルさ、見やすさ、そしてバックアップの意味もあって、両方を続けている。さるさるで「夢」というキーワードで検索すると、夢日記以外もかなり引っかかるが、夢を記した日記をひろっていくことができる。

「夢日記」のカテゴリーで最近の夢を振り返って見ると、半月ぐらいごとにちょっと重要そうな夢を見ているようだ。しかし、何と言っても最近でいちばん意味がある夢は、僧侶=白鶴の夢だった。今でも思い出すと自分の中にある自覚が生まれる。自己の利害に左右されたり、影響されたりがない純粋な行為、なすべきことに真摯に取り組むこと、「自我による汚れなき行為」、それが夢の中の僧=白鶴の意味だった。

魂の奥底で私は、そういう行為をすでに知っている。そういう行為、そういう生き方の深い意味をすでに知っている。それは、私にとって憧れであると同時に、すでにあるものへの回帰だ。すでに完璧に知っているあり方に回帰することの喜びだ。

回帰は、私にとってまず行為として現れるだろう。純粋な行為こそが私にとってもっともたやすい。瞑想よりも何よりも。
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夢:異質なセラピー

2006年01月12日 | 夢日記
◆夢:異質なセラピー
明け方、何かしらメッセージ性の強そうな夢をみた。

私は、若い静かな感じの女性から新しい心理療法の考え方について話をしてもらっている。二人は、田園の中の道を歩きながら話している。彼女のいう新しい心理療法の考え方は、私には今ひとつピンとこない。

振り向くと、私たちの少し後ろを男が心配そうな顔をしてついてくる。なぜかそれは西田敏行なのだが、夢の中では、彼女の気弱そうな夫である。彼は、私たち二人の関係を心配しているのだ。確かに私は、物静かでありながら熱心に心理療法を語る彼女に好感をもっているが、それ以上のものではない。二人が話している内容を聞けば、心配はいらないことが分かりそうなものなのにと思いつつ、私は彼女の話を聞き続ける。

彼女が示す本を見る。ページをめくるごとに、真っ赤な太陽その他の絵や写真が出てくる。それらが一つひとつ心理療法の説明になっている。これは○○セラピーではないかと思い当たるようなものが多いのだが、全体が、これまで私が学んできた心理療法とは異質な原理で貫かれているのだ。だから私には今ひとつ理解できない。

もっと学んでこの新しい考え方を理解したいと思いつつ理解できない、そんな軽い焦燥感の中で目覚めた。

◆西田敏行:もう一人の私?
もしかしたら、今談話室で進行中のやりとりが関係するかな、とも思うがよく分からない。少なくとも、私がこれまで慣れ親しんできた考え方とは異質の新しい考え方を前に、それを理解しようとするのだが、まだうまくつかめない、という状況を語るの確かだろう。心理療法だから、心に関係する何かであることは確かだ。自覚的な自分とは異質なものに対面し、とまどいつつも理解しようとしている。

その新しい考え方との融合を心配しているもう一人の私=西田敏行?
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