最近、読者の方からコメントで「脳は今の科学ではほとんど未知の領域だと思いますが、今後解明領域が拡大していくと臨死体験も至高体験も脳内現象である可能性が高くなると思われますか」という質問をいただいた。
この問題は、人間の主観的体験や意識、「こころ」を脳科学によって説明しきれるか、という問題と言い換えてもよいだろう。脳の生理化学で「悟り」を説明できるのか、という問題の根底には、そもそも意識を化学記号で説明しきれるのかという問題が横たわっている。
これについては、かつて別のブログで一連の書評という形で考察したことがある。私自身、もう一度再確認したい気持ちもあるので、これを整理しながら、再録したい。
◆『心を生みだす脳のシステム―「私」というミステリー (NHKブックス)』(茂木健一郎)をめぐって
この本の基本的な主張は、「心を生み出す脳のシステムは、単純な機能局在説では理解できない」こと、「生化学的な知見や機能局在は、脳というシステムの、いわば断面図に過ぎない。断面図をいくら集めても、私たちの心を生み出す生きた本質はには迫れない」ということである。
一方では、「心を生み出すのは、脳全体にまたがって、1000億のニューロンが作り上げる、複雑で豊かな関係性である。つまり、心を生み出すのは、脳というシステムなのだ」として、脳が心を生み出すとはっきりと断言する。
前書きで、そう断言しながら、最後には、著者は、実は「ニューロンを一つ一つ集め、ある関係性を持たせるとなぜそこに心が宿るのか、その第一原理さえ皆目検討がつかない」と告白するのである。
タイトルやまえがきの勇ましさにくらべると、最後の弱腰の言葉には、明らかなギャップがあって、その落差の大きさにちょっとびっくりする。最近の脳の科学の成果を読むことは刺激に満ちていたけれど、筆者は、およそ困難な課題に取り組んで、最後に弱音を吐いているような気もする。
私たちは、みなそれぞれ主観的な体験をもっている。「朝の空気のすがすがしさ、午後のけだるさ、ビールの最初の一杯の爽快さ‥‥‥これらの主観的体験に満ちた意識は、一体どのようにして生じるのか。この問題は、私たち人類に残された最大の謎と言ってもよいだろう。」(18)
注:( )内の数字は本のページを示す。以下同様。
この問題は、「物質に過ぎない脳のニューロン活動から、いかにして薔薇を見ている時の生々しいクオリア」が生じるのかという問題に置き換えることもできる。クオリア=「薔薇を見た時に心の中に浮かぶ赤い色の感じのように、私たちの心に浮かぶ質感」(12)
茂木は、クオリアのめぐるこのような問題は、「従来の意味での科学的記述を脳に関していくら積み上げても、根本的に解決することはできないだろう」ともいう。クオリア問題は、「従来の物理学に象徴される科学的世界観に開いた穴なのである。」(13)
こうして書き出してみると、茂木が、本の出発点において問題の本質をしっかりと表明していることが分かる。にも関わらず、一方では科学的世界観の延長線上でこの問題を解こうと必死になっている。そういう矛盾した姿勢が見て取れる。
「何もないところから、私たちの意識が立ち上がる」過程を明らかにするためには、脳の中で1000億のニューロンがお互いに結ぶ関係性(システム)を第一原理として、それ以外の何ものも仮定せずに議論を進める必要がある」(21)と著者はいう。
まるで、脳における機能局在説から関係説に変えれば、意識の問題はすべて解決するかのごとき言い方だが、一方では「ニューロンを一つ一集め、ある関係性を持たせるとなぜそこに心が宿るのか、その第一原理さえ皆目検討がつかない」という弱腰なのだ。この二重性はいったい何だろうか。表現にはっきりとした揺れがある。
私には、茂木が提出したような問いに含まれる根本的な問題性をまず明らかにする必要があると思われる。それは、心とは何か、主観性とは何か、意識とは何かという問題だ。
クオリアでいう質感とは、つまり主観に感じられる性質であり、結局は主観性の問題にいきつくのだ。だから問題は、ニューロン相互の関係性を完璧に解明するという方向が、どうして主観性の解明につながるのかという問題になる
この問題は、人間の主観的体験や意識、「こころ」を脳科学によって説明しきれるか、という問題と言い換えてもよいだろう。脳の生理化学で「悟り」を説明できるのか、という問題の根底には、そもそも意識を化学記号で説明しきれるのかという問題が横たわっている。
これについては、かつて別のブログで一連の書評という形で考察したことがある。私自身、もう一度再確認したい気持ちもあるので、これを整理しながら、再録したい。
◆『心を生みだす脳のシステム―「私」というミステリー (NHKブックス)』(茂木健一郎)をめぐって
この本の基本的な主張は、「心を生み出す脳のシステムは、単純な機能局在説では理解できない」こと、「生化学的な知見や機能局在は、脳というシステムの、いわば断面図に過ぎない。断面図をいくら集めても、私たちの心を生み出す生きた本質はには迫れない」ということである。
一方では、「心を生み出すのは、脳全体にまたがって、1000億のニューロンが作り上げる、複雑で豊かな関係性である。つまり、心を生み出すのは、脳というシステムなのだ」として、脳が心を生み出すとはっきりと断言する。
前書きで、そう断言しながら、最後には、著者は、実は「ニューロンを一つ一つ集め、ある関係性を持たせるとなぜそこに心が宿るのか、その第一原理さえ皆目検討がつかない」と告白するのである。
タイトルやまえがきの勇ましさにくらべると、最後の弱腰の言葉には、明らかなギャップがあって、その落差の大きさにちょっとびっくりする。最近の脳の科学の成果を読むことは刺激に満ちていたけれど、筆者は、およそ困難な課題に取り組んで、最後に弱音を吐いているような気もする。
私たちは、みなそれぞれ主観的な体験をもっている。「朝の空気のすがすがしさ、午後のけだるさ、ビールの最初の一杯の爽快さ‥‥‥これらの主観的体験に満ちた意識は、一体どのようにして生じるのか。この問題は、私たち人類に残された最大の謎と言ってもよいだろう。」(18)
注:( )内の数字は本のページを示す。以下同様。
この問題は、「物質に過ぎない脳のニューロン活動から、いかにして薔薇を見ている時の生々しいクオリア」が生じるのかという問題に置き換えることもできる。クオリア=「薔薇を見た時に心の中に浮かぶ赤い色の感じのように、私たちの心に浮かぶ質感」(12)
茂木は、クオリアのめぐるこのような問題は、「従来の意味での科学的記述を脳に関していくら積み上げても、根本的に解決することはできないだろう」ともいう。クオリア問題は、「従来の物理学に象徴される科学的世界観に開いた穴なのである。」(13)
こうして書き出してみると、茂木が、本の出発点において問題の本質をしっかりと表明していることが分かる。にも関わらず、一方では科学的世界観の延長線上でこの問題を解こうと必死になっている。そういう矛盾した姿勢が見て取れる。
「何もないところから、私たちの意識が立ち上がる」過程を明らかにするためには、脳の中で1000億のニューロンがお互いに結ぶ関係性(システム)を第一原理として、それ以外の何ものも仮定せずに議論を進める必要がある」(21)と著者はいう。
まるで、脳における機能局在説から関係説に変えれば、意識の問題はすべて解決するかのごとき言い方だが、一方では「ニューロンを一つ一集め、ある関係性を持たせるとなぜそこに心が宿るのか、その第一原理さえ皆目検討がつかない」という弱腰なのだ。この二重性はいったい何だろうか。表現にはっきりとした揺れがある。
私には、茂木が提出したような問いに含まれる根本的な問題性をまず明らかにする必要があると思われる。それは、心とは何か、主観性とは何か、意識とは何かという問題だ。
クオリアでいう質感とは、つまり主観に感じられる性質であり、結局は主観性の問題にいきつくのだ。だから問題は、ニューロン相互の関係性を完璧に解明するという方向が、どうして主観性の解明につながるのかという問題になる