瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想をめぐる不思議、再び

2013年06月17日 | 瞑想日記
前回、自分の瞑想合宿に参加したときのレポートを振返って、「集中的な瞑想の期間中に、自律的に展開して自分を導くような無意識の深い知恵を強く感じた。この体験は、自分自身の無意識的な心の働きへの信頼のようなものを植え付けた」と書いた。最近、その信頼がさらに深まる思いでいる。

私が瞑想を再開するきっかけを与えてくれたのはある友人であるが、このようなきっかけを与えてくれた流れ自体に大きな意味があると感じている。この3年ほど時間にかなり余裕ができたのに瞑想はしていなかった。今考えるとかなりもったいないことをしたと思うが、不思議なご縁と流れの中で、再び瞑想に取り組むようになった。それは私の中の大きな課題に再び取り組むようになったということも意味する。しかし、別の見方をすれば、この3年間は無駄だったのではなく、私の中で再び瞑想に取り組む期が熟したということなのだろう。私の中の私の意図を越えた何かが、そういう流れを作ったのかもしれない。

無意識といえば、先週の火曜日、印象的なことがあった。寝ている時に、ある友人と会いたいという思いが、夢のような感じで心を強く支配していた。その日は、たまたま寝坊して、職場の最寄の駅から乗るバスが2本ほど遅れた。そうしたら、そのバスに乗ろうとするその友人とたまたま会って、バスの中でゆっくり話すことができたのである。

以下は、最近の瞑想をしていて感じたこと。

瞑想をしていると様々な思い、雑念が生じる。ヴィパッサナー瞑想はそのつどそれらに気づき(サティ)を入れていく。様々な思いが生じては消える自分を、もう一つ別の意識が観察している。瞑想に熟練すればするほどその別の意識が確たる存在になっていくのだろう。その意識はいわゆる自我を越えている。

瞑想中に様々な思い、雑念が湧く。原始仏教を受継ぐヴィパッサナー瞑想はその一つ一つをおろそかにせず気づきを入れていく。気づきが確実に入るほどに雑念は少なくなる。それと同時に思い、思考への強固な自己同一化に次第にほころびが生じる。思考への同一化が自我を形づくるという構造が崩れていく
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