遠い親戚筋にあたるAさんとは、関心分野がおなじこともあって、ある歴史研究会に誘い、その会ではよくあっている。しかし、最近、お互いの政治的立場や歴史のとらえ方の食い違いからよく議論をするようになった。私は、彼の歴史解釈のここが違うと事実を示して説明するのだが、彼もまたかれなりの根拠から私の意見を受け入れようとはしない。
最近私は、彼との意見の違いが非常に気になり、瞑想中にもその件をめぐって考えてしまうことが多い。今日、以下のようにツイートしたのは、彼を巡ってのことである。
「もしAさんを嫌ったり、その言動が気に障ったりしているなら、それは確実に私の中のAさんと戦っているのだ。頭でそう分かっていてもやはり現実のAさんのことが気にくわない。でも瞑想中にやっと分かった。私は私の中のAさんと戦っている。つまり私が、私自身の自我を許容せず、それと戦っていると。」
これに「難しい文章だけど何か納得する」とコメントをつけてくれた方いたので、それに次のように返信した。
「コメント感謝。好きな言葉『自分を愛せる程度にしか人を愛することもできない』。自分を受容できる程度にしか人を受容することもできないのだと思います。自分を嫌っている部分があるとそれを人に投影してその人を嫌う。昔イイカッコしいだった私はカッコつける人がまじ嫌いでした。」
私が、Aさんとの議論にこだわってしまうのは、あくまでも私自身の問題であることは、頭ではよくわかっていた。それが私自身の自我、我執をAさんに投影し、その投影された自分自身の我執を嫌っているのだということも何となくは分かっていた。しかし頭でわかっているだけではどうにもならないのが、難しいところだ。
しかし今日、瞑想中、雑念がまたまたそのことにおよび、それを巡ってサティをしているうちに、これが私自身のエゴの問題なのだということが、これまでの頭の部分での理解より、かなり得心の行く感じで分かった。
私がAさんを巡って、気に障ったり反発したり、何とか納得させようと考えたり、いろいろと考えてしまうのは、すべて私のエゴがそうさせているのだし、自分で自分のエゴと戦っているのだ。それがよくわかった。私は、私自身のエゴを心の奥深いところで許していないのだ。そういう我執に囚われた自分をどこかで嫌っているのだ。それをAさんに投影してAさんのことが気に障るのである。私は、私のエゴを嫌っているのである。それが今までに比べ深い部分で見えてしまった。
今日は、瞑想の前半、いつもに比べ雑念が多かったが、その分、充実した心随観が出来たと思う。
最近私は、彼との意見の違いが非常に気になり、瞑想中にもその件をめぐって考えてしまうことが多い。今日、以下のようにツイートしたのは、彼を巡ってのことである。
「もしAさんを嫌ったり、その言動が気に障ったりしているなら、それは確実に私の中のAさんと戦っているのだ。頭でそう分かっていてもやはり現実のAさんのことが気にくわない。でも瞑想中にやっと分かった。私は私の中のAさんと戦っている。つまり私が、私自身の自我を許容せず、それと戦っていると。」
これに「難しい文章だけど何か納得する」とコメントをつけてくれた方いたので、それに次のように返信した。
「コメント感謝。好きな言葉『自分を愛せる程度にしか人を愛することもできない』。自分を受容できる程度にしか人を受容することもできないのだと思います。自分を嫌っている部分があるとそれを人に投影してその人を嫌う。昔イイカッコしいだった私はカッコつける人がまじ嫌いでした。」
私が、Aさんとの議論にこだわってしまうのは、あくまでも私自身の問題であることは、頭ではよくわかっていた。それが私自身の自我、我執をAさんに投影し、その投影された自分自身の我執を嫌っているのだということも何となくは分かっていた。しかし頭でわかっているだけではどうにもならないのが、難しいところだ。
しかし今日、瞑想中、雑念がまたまたそのことにおよび、それを巡ってサティをしているうちに、これが私自身のエゴの問題なのだということが、これまでの頭の部分での理解より、かなり得心の行く感じで分かった。
私がAさんを巡って、気に障ったり反発したり、何とか納得させようと考えたり、いろいろと考えてしまうのは、すべて私のエゴがそうさせているのだし、自分で自分のエゴと戦っているのだ。それがよくわかった。私は、私自身のエゴを心の奥深いところで許していないのだ。そういう我執に囚われた自分をどこかで嫌っているのだ。それをAさんに投影してAさんのことが気に障るのである。私は、私のエゴを嫌っているのである。それが今までに比べ深い部分で見えてしまった。
今日は、瞑想の前半、いつもに比べ雑念が多かったが、その分、充実した心随観が出来たと思う。