◆『湖の伝説―画家・三橋節子の愛と死 (新潮文庫)』
本の整理をしていて、昔読んだ古い本に再会するのもよいものだ。そんな再会の一つにこの本があった。作者は梅原猛だが、彼の多くの本のなかでは異色だ。哲学者であり古代学者でもある梅原氏が、癌で35歳でなくなった画家・三橋節子(1939年~1975年)の生涯を描いているのだ。
彼女は、死ぬ2年前の1973年に利き手の右手を鎖骨の癌により手術で切断している。その前、彼女が夫から、病が癌であることを知らされたとき、彼女ははっきりと死を意識していただろうと梅原は書く。しかし、手術を無事に終わり、転移も見られなかったので、死は一時彼女から遠ざかったかに見えた。以下は、彼女の父と思われる人が書いた文章からである。
「それから九ヶ月ほど、肺への転移も認められず、左手で書いた絵『三井の晩鐘』と『田鶴来』が秋の新制作展に入選した時は、節子も喜び、右手は無くても、このまま一命をとり止めてくれればと祈っていたが。12月に左肺への転移が発見され、即刻、明日手術ということになった。その時も病院の帰りに銀閣寺の家へ寄り、私の顔を見るなりポロポロッと大粒の涙を流した。私は軽く左肩をたたいて、『今度の手術は簡単なんだから、もう一度頑張ろうよ』と励ました。しかし手術の結果は見透しの暗いものであった」
ここに出てくる『三井の晩鐘』という作品は、次のような『近江むかし話』に基づいている。
むかし、子供にいじめられていた蛇を助けた若い漁師のもとに、その夜、若く美しい女が訪ねてきた。実は恩返しにと、人間に姿を変えた湖に住む龍王の娘だった。やがて二人は夫婦になり、赤ん坊も生まれた。ところが、龍王の娘であることの秘密が知られてた女は、琵琶湖に呼び戻されてしまう。残された子どもは母親を恋しがり、毎日、激しく泣き叫ぶ。女は、ひもじさに泣く赤ん坊に自分の目玉をくりぬいて届けた。母親の目玉をなめると、不思議と赤ん坊は泣きやむ。しかし、やがて目玉はなめ尽くされ無くなってしまう。それで女は、更にもう一つの目玉をくりぬいて届ける。盲になった女は、漁師に、三井寺の鐘をついて、 二人が達者でいることを知らせてくれるように頼む。鐘が湖に響くのを聴いて、女は心安らわせたという。
三橋節子は、この民話をもとに作品を描いたのである。目玉をなめる子どもの背後に母親がいる。梅原は、その母親の顔は、神々しいという。それは、もはや人間の顔ではなく、ましてや龍の女の顔でもない。仏のなった者の顔だという。そして言う。
「節子は、この時やはり、仏になっていたと私は思う。もしこの時、節子が仏にならなかったとしたら、人間の世界で誰一人、仏になる人はいないとさえ私は思う。‥‥節子は、想像を絶する苦悩の中で、仏となったのである。一切の煩悩をすて、慈悲の心そのものに彼女はなった。ならざるをえなかったのである。苦悩と、そしてその苦悩の克服が、彼女をしてこのような神々しい顔を、かかしめることが出来たのである。こういう神々しい顔は、また、節子自身の顔である。」
彼女には「くさまお」と「なずな」という二人の幼い子がいた。だからこそ彼女は、龍女と自分とをほとんど同一化していたのかもしれない。子を残して逝く母の、想像を絶する悲しみがこの絵に託されているのだ。
三橋節子の話は、かつて覚醒・至高体験事例集の中に入れることも考えたが、彼女自身の言葉によって語られたものではないので断念した記憶がある。その変わり、彼女によって描かれた絵が残っている。大津市の「三橋節子美術館」でその絵をじかに見ることができる。私もいつか行ってみたいと思う。
本の整理をしていて、昔読んだ古い本に再会するのもよいものだ。そんな再会の一つにこの本があった。作者は梅原猛だが、彼の多くの本のなかでは異色だ。哲学者であり古代学者でもある梅原氏が、癌で35歳でなくなった画家・三橋節子(1939年~1975年)の生涯を描いているのだ。
彼女は、死ぬ2年前の1973年に利き手の右手を鎖骨の癌により手術で切断している。その前、彼女が夫から、病が癌であることを知らされたとき、彼女ははっきりと死を意識していただろうと梅原は書く。しかし、手術を無事に終わり、転移も見られなかったので、死は一時彼女から遠ざかったかに見えた。以下は、彼女の父と思われる人が書いた文章からである。
「それから九ヶ月ほど、肺への転移も認められず、左手で書いた絵『三井の晩鐘』と『田鶴来』が秋の新制作展に入選した時は、節子も喜び、右手は無くても、このまま一命をとり止めてくれればと祈っていたが。12月に左肺への転移が発見され、即刻、明日手術ということになった。その時も病院の帰りに銀閣寺の家へ寄り、私の顔を見るなりポロポロッと大粒の涙を流した。私は軽く左肩をたたいて、『今度の手術は簡単なんだから、もう一度頑張ろうよ』と励ました。しかし手術の結果は見透しの暗いものであった」
ここに出てくる『三井の晩鐘』という作品は、次のような『近江むかし話』に基づいている。
むかし、子供にいじめられていた蛇を助けた若い漁師のもとに、その夜、若く美しい女が訪ねてきた。実は恩返しにと、人間に姿を変えた湖に住む龍王の娘だった。やがて二人は夫婦になり、赤ん坊も生まれた。ところが、龍王の娘であることの秘密が知られてた女は、琵琶湖に呼び戻されてしまう。残された子どもは母親を恋しがり、毎日、激しく泣き叫ぶ。女は、ひもじさに泣く赤ん坊に自分の目玉をくりぬいて届けた。母親の目玉をなめると、不思議と赤ん坊は泣きやむ。しかし、やがて目玉はなめ尽くされ無くなってしまう。それで女は、更にもう一つの目玉をくりぬいて届ける。盲になった女は、漁師に、三井寺の鐘をついて、 二人が達者でいることを知らせてくれるように頼む。鐘が湖に響くのを聴いて、女は心安らわせたという。
三橋節子は、この民話をもとに作品を描いたのである。目玉をなめる子どもの背後に母親がいる。梅原は、その母親の顔は、神々しいという。それは、もはや人間の顔ではなく、ましてや龍の女の顔でもない。仏のなった者の顔だという。そして言う。
「節子は、この時やはり、仏になっていたと私は思う。もしこの時、節子が仏にならなかったとしたら、人間の世界で誰一人、仏になる人はいないとさえ私は思う。‥‥節子は、想像を絶する苦悩の中で、仏となったのである。一切の煩悩をすて、慈悲の心そのものに彼女はなった。ならざるをえなかったのである。苦悩と、そしてその苦悩の克服が、彼女をしてこのような神々しい顔を、かかしめることが出来たのである。こういう神々しい顔は、また、節子自身の顔である。」
彼女には「くさまお」と「なずな」という二人の幼い子がいた。だからこそ彼女は、龍女と自分とをほとんど同一化していたのかもしれない。子を残して逝く母の、想像を絶する悲しみがこの絵に託されているのだ。
三橋節子の話は、かつて覚醒・至高体験事例集の中に入れることも考えたが、彼女自身の言葉によって語られたものではないので断念した記憶がある。その変わり、彼女によって描かれた絵が残っている。大津市の「三橋節子美術館」でその絵をじかに見ることができる。私もいつか行ってみたいと思う。